(前記事より)
下半身が
「私」
の意志に反して勝手にしたことの責任を
どうして「私」がとらなきゃいけないの!?
しかし
生きていく上でそういうことは多い。
汗をかくのだって、くしゃみをするのだって、酔って(お酒ばかりではなく、乗り物酔いも)吐くのだって、
本人の意志とは関係ない。
自分が悪くなくても会社を代表してお客様に謝るとか、職場内でさえ責任の押し付け合いの結果、みんなの罪を一人で背負って謝罪させられたり。
大人になるとは、それができるようになること。自分が悪くないことで、誠意をもって心から謝罪できること。このことで組織は守られる。いや、ボスが守られるのかも・・・。
飲食店の従業員は、お客様の胃袋に入る商品に自分の汗を垂らすわけには行かない。たとえ暑い日であってもだ。暑いとき汗は勝手に出てしまうが、「汗は出すな!」と責任を要求される。
乗り物酔いも大変だ。みんなでバス旅行だなんてときに、
バスに乗るのは半強制だが、酔って吐いたら周囲の視線は苦しんでいる自分に責任を求めてくる。
そんなとき
しつこく誘った相手に限って
「ダメならちゃんと断れ。なぜ断らなかった?断らないお前が悪い」
と責めてくる。
お酒の場合も
無理矢理すすめてきたやつに限って、吐くと白い目で見る。そして
「お前が自分から飲んだ」
と言って責めたてる。
病気で苦しいときこそ、他人に助けてもらいたいのに、
病気で苦しいときこそ、職場をクビになって収入を絶たれる。
「原因」
を究明するのが理系の世界。
「責任」
を追求するのが文系の世界。
何が原因だろう?
と考える人は理系。
誰の責任だろう?
を考える人は文系。
確かに、
理系のなかでも
他人の責任ばかりを追求する人間で、
俺は文系もできる
とやたら自慢するやつはいる。
少女誘惑問題は
前向きにとらえることもできる。
精神が、隠したり見せたりをコントロールすることで自身の肉体を効果的に利用しているのだ。
別に、いつも見せないわけではない。その魅力を使う、使わないのきめ細かなコントロールを精神が担当している。つまり、見せるためにこそ隠している。
それがわかった上で見せているならやはり本人の自由ではなかろうか。
ところが
そう単純でもない。
若い女性の肌の露出を好まないのは必ずしも男性ではない。
ベテラン女性の方である。曰く、勿体無い。
見せることを適度にコントロールすることで、より効果的に見せられる。あまり無原則に見せてしまってはその価値が下がる。だからあなたのためになりませんとの理屈だが、女性の美しさの価値が下がるのは女性全体の問題だから、あなたのせいで女性全体の価値が下がるのは迷惑だと言っているようにもとれる。
つまりそれは利害関係の駆け引きに過ぎない。自分を不利にする若い女性の行動を牽制しようとしているだけかも・・・
もはや誰もが肌を出す方向に向かっていてこの傾向は止められないということになれば、ベテラン女性も戦略を一転させ、肌をみせはじめる。
カブトムシの研究は、
その内容が直接人間の利害に及ぶことがない。
研究者と事業者には影響が及ぶが人間としての行動規範に影響するわけではない。
逆に、観察者の存在が観察対象に影響を与えてはならないという科学のお約束の制約も比較的容易にクリアできそうだ。たとえ研究者が虫籠ごしに
「けっ、このメス、派手にフェロモンぶっぱなしやがって!
いったい何匹のオス侍らせてるんだか、節操もない!」
なんて毒づいたとしてもカブトムシは知らん顔。だから安心して研究できるし結果も信頼できる。相手が人間だったらそうは行かないはず。
とにかくこうしたわけでカブトムシに対しては純粋な真実の探求が行われやすい。
人間の研究は、
そうは行かない。
若い女性のファッションは他の女性にとっても、男性にとっても、その利害と衝突してくる。だから真実の追求ではなく、利害の追求になってしまうのだ。
そこでは真実は、利害のための口実としていくらでも歪められて利用される。事実、歴史認識のような文系の内容はときの政治状況や国際情勢、そして歴史の発展段階そのものによっていくらでも変節する。
昨日の敵は今日の友
の如く
昨日の嘘は今日の真
昨日の真は今日の嘘
まさに
政治の世界
こそ
文系の世界
である。
人間が対象になる場合
誰もがその当事者であり、
誰も客観的な「第三者」ではあり得ない。
だから、
誰もが、自分の損得勘定に照らして、嘘を真と、真を嘘と、言いくるめることに腐心する。最近ではそんな競技やらゲームやら番組企画やらが登場する始末である。その競技で技能を磨いた文系職人は、都合の悪い真実や学説が出現したときに潰しにかかる兵隊として登用される。
この世界で
「真実」とは自分に都合のよいことのことであり、
「正義」とは自分を助けてくれることである。
真実が大切なのではなく、自分が得することが大切なのである。
人間はカブトムシとは違う。
カブトムシを見るときは、誰もがその真実の美しさに魅せられる。
人間をみるときは、誰も「真実」になど関心がない。大事なのは、自分の欲望の充足である。
理系と文系との大きな違いはここに起因する。
自然が対象になる場合
真実の解明に、多くの人が前向きの評価をする。自身の利害が脅かされる心配が小さいからだ。
一方で
人間が対象になる場合
真実の解明は、迷惑に思われたり、警戒や攻撃の対象であることが多い。それが自身の利害を脅かすときにはいつでも即座に攻撃を加える。
次は
性同一性障害
下半身が
「私」
の意志に反して勝手にしたことの責任を
どうして「私」がとらなきゃいけないの!?
しかし
生きていく上でそういうことは多い。
汗をかくのだって、くしゃみをするのだって、酔って(お酒ばかりではなく、乗り物酔いも)吐くのだって、
本人の意志とは関係ない。
自分が悪くなくても会社を代表してお客様に謝るとか、職場内でさえ責任の押し付け合いの結果、みんなの罪を一人で背負って謝罪させられたり。
大人になるとは、それができるようになること。自分が悪くないことで、誠意をもって心から謝罪できること。このことで組織は守られる。いや、ボスが守られるのかも・・・。
飲食店の従業員は、お客様の胃袋に入る商品に自分の汗を垂らすわけには行かない。たとえ暑い日であってもだ。暑いとき汗は勝手に出てしまうが、「汗は出すな!」と責任を要求される。
乗り物酔いも大変だ。みんなでバス旅行だなんてときに、
バスに乗るのは半強制だが、酔って吐いたら周囲の視線は苦しんでいる自分に責任を求めてくる。
そんなとき
しつこく誘った相手に限って
「ダメならちゃんと断れ。なぜ断らなかった?断らないお前が悪い」
と責めてくる。
お酒の場合も
無理矢理すすめてきたやつに限って、吐くと白い目で見る。そして
「お前が自分から飲んだ」
と言って責めたてる。
病気で苦しいときこそ、他人に助けてもらいたいのに、
病気で苦しいときこそ、職場をクビになって収入を絶たれる。
「原因」
を究明するのが理系の世界。
「責任」
を追求するのが文系の世界。
何が原因だろう?
と考える人は理系。
誰の責任だろう?
を考える人は文系。
確かに、
理系のなかでも
他人の責任ばかりを追求する人間で、
俺は文系もできる
とやたら自慢するやつはいる。
少女誘惑問題は
前向きにとらえることもできる。
精神が、隠したり見せたりをコントロールすることで自身の肉体を効果的に利用しているのだ。
別に、いつも見せないわけではない。その魅力を使う、使わないのきめ細かなコントロールを精神が担当している。つまり、見せるためにこそ隠している。
それがわかった上で見せているならやはり本人の自由ではなかろうか。
ところが
そう単純でもない。
若い女性の肌の露出を好まないのは必ずしも男性ではない。
ベテラン女性の方である。曰く、勿体無い。
見せることを適度にコントロールすることで、より効果的に見せられる。あまり無原則に見せてしまってはその価値が下がる。だからあなたのためになりませんとの理屈だが、女性の美しさの価値が下がるのは女性全体の問題だから、あなたのせいで女性全体の価値が下がるのは迷惑だと言っているようにもとれる。
つまりそれは利害関係の駆け引きに過ぎない。自分を不利にする若い女性の行動を牽制しようとしているだけかも・・・
もはや誰もが肌を出す方向に向かっていてこの傾向は止められないということになれば、ベテラン女性も戦略を一転させ、肌をみせはじめる。
カブトムシの研究は、
その内容が直接人間の利害に及ぶことがない。
研究者と事業者には影響が及ぶが人間としての行動規範に影響するわけではない。
逆に、観察者の存在が観察対象に影響を与えてはならないという科学のお約束の制約も比較的容易にクリアできそうだ。たとえ研究者が虫籠ごしに
「けっ、このメス、派手にフェロモンぶっぱなしやがって!
いったい何匹のオス侍らせてるんだか、節操もない!」
なんて毒づいたとしてもカブトムシは知らん顔。だから安心して研究できるし結果も信頼できる。相手が人間だったらそうは行かないはず。
とにかくこうしたわけでカブトムシに対しては純粋な真実の探求が行われやすい。
人間の研究は、
そうは行かない。
若い女性のファッションは他の女性にとっても、男性にとっても、その利害と衝突してくる。だから真実の追求ではなく、利害の追求になってしまうのだ。
そこでは真実は、利害のための口実としていくらでも歪められて利用される。事実、歴史認識のような文系の内容はときの政治状況や国際情勢、そして歴史の発展段階そのものによっていくらでも変節する。
昨日の敵は今日の友
の如く
昨日の嘘は今日の真
昨日の真は今日の嘘
まさに
政治の世界
こそ
文系の世界
である。
人間が対象になる場合
誰もがその当事者であり、
誰も客観的な「第三者」ではあり得ない。
だから、
誰もが、自分の損得勘定に照らして、嘘を真と、真を嘘と、言いくるめることに腐心する。最近ではそんな競技やらゲームやら番組企画やらが登場する始末である。その競技で技能を磨いた文系職人は、都合の悪い真実や学説が出現したときに潰しにかかる兵隊として登用される。
この世界で
「真実」とは自分に都合のよいことのことであり、
「正義」とは自分を助けてくれることである。
真実が大切なのではなく、自分が得することが大切なのである。
人間はカブトムシとは違う。
カブトムシを見るときは、誰もがその真実の美しさに魅せられる。
人間をみるときは、誰も「真実」になど関心がない。大事なのは、自分の欲望の充足である。
理系と文系との大きな違いはここに起因する。
自然が対象になる場合
真実の解明に、多くの人が前向きの評価をする。自身の利害が脅かされる心配が小さいからだ。
一方で
人間が対象になる場合
真実の解明は、迷惑に思われたり、警戒や攻撃の対象であることが多い。それが自身の利害を脅かすときにはいつでも即座に攻撃を加える。
次は
性同一性障害