文系か理系か。
数学が苦手なら文系。
暗記が苦手なら理系。
そんなネガティブな考え方はやめよう。
前記事ではカブトムシの話をした。
そして
本に書いてある結論を信じて自分の行動に反映させた男の話を書いた。
もう少しこれを掘り下げておきたい。
現実に反映される問題としては
「冤罪」
がある。
そしてそれは
「死刑制度の是非」論争につながる。
これらは典型的な文系テーマである。
理系のテーマではあり得ない。
なぜか?
対象が自然ではなく人間だからというのはもちろんその通りだ。
しかし
ではなぜ対象が人間のときには科学ではなくなるのか?
「人間科学」
ではいけないのか?
前記事の例をもう一度。
1000頭のカブトムシの求愛行動について調べ、何か分かったとする。しかしそのうちの10頭くらいは全くの例外行動をとっていたかもしれない。しかし平均をとって話を進めるから問題ない。
比較の対象にしたのは
人間の恋愛行動を調べた場合の話。この場合も1000人中10人くらいは例外というケースはよくあることだろう。
カブトムシの場合、
例外10匹のことは問題にならない。
人間の場合も
例外10人のことは問題にならない。少なくとも科学の研究論文としては。
しかし、
自分自身がその10人の側だった場合、自分にとっては大問題になる。
自分は多数派から見捨てられる少数派となり、
自分には世間の常識が適用できないのである。
カブトムシの場合、
人間である自分が、その例外10匹である可能性ははじめから存在しない。なぜならそれはカブトムシの話であって、人間の話ではないからだ。だからカブトムシのことは安心して他人事である。
もちろん
10匹の例外カブトムシにとっては他人事ではない。失礼な話である。
しかし、
それでもそれは
カブトムシの話である。
人間の話ではない。
人間は観察者である。
その観察をした人間がそのテーマで研究論文を書き、実績が認められればよいのであって、10匹の例外カブトムシの気持ちなど知ったこっちゃない。
あるいは人間は、この研究結果に基づいて、カブトムシをたくさん養殖して収入を得ようとしている業者かもしれない。その場合、例外10匹に特別対応することがコスト的に大量生産に馴染まないということになれば、例外10匹などはじてしまうだろう。つまり捨ててしまう。あるいは殺してしまう。10匹殺しても残りの990匹が利潤をもたらしてくれればそれでいい。さらには
その例外10匹が子孫を遺さずに死んでくれたなら、次の世代には例外を捨てる手間さえ省け、更なる生産の効率化につながる。
もちろん
以上は人間の立場での話である。
10匹の、廃棄される例外カブトムシにとっては、
子孫を遺せるかどうかの死活問題である。例外として忘れていいどころか、生きる意味そのものに関わる深い問題になる。
だがそれでも
それはカブトムシの問題である。
人間の問題ではない。
カブトムシ自身が心配し嘆き悲しめばいい問題である。
少しはカブトムシの立場に立って考えよと主張したいわけではない。
カブトムシが、
「その研究データは我々の生存のためにこそ利用されるべきである」
とデータの引き渡しを人間に要求してくるということでも起きない限り、カブトムシのことに同情することは、ペットを愛する道楽と同じものか、そうでなければ人間の側の利害の問題であろう。
これが
人間を対象とする調査だった場合はどうなるか。
実はその場合でも、
自分が当事者でないか、
990人の多数派であるうちは問題はない。
1000人中990人に当てはまる法則は真実である。
「棄却域

%」などと丁寧に裏付ける理論さえある。何か論文をだしてその実績が認められるためには10人の例外など問題でないことを認めさせる理論まで整備されている。ここまではカブトムシの場合と同じである。
そしてさらにこの調査結果に基づいて、政策なりビジネスなりに着手する場合にも問題はない。
1000人中990人に当てはまる法則は、その政策を成功させ、ビジネスを成功させ、990人の有権者、990人の顧客の評判を獲得するだろう。
世間話や、知識をひけらかすネタとしても喜んでもらえるだろう。
問題は
自分自身が例外の10人
ー廃棄処分されるカブトムシの側ー
になった場合である。
本に書いてある、
自分には当てはまらない法則を信じて行動し、恥をかいてしまった男の立場である。
自分が、例外側になる確率はとても少ないように見えるが、100くらいのテーマについて見れば誰でも一つくらいは例外側の経験をしているかもしれない。
ともあれ、
この問題は
自分自身が例外側になったときに初めて気付く問題である。
多数側にいるときは
例外側10人のことなど、
例外カブトムシと同様
他人事であり、
標準から外れているからという理由で抹殺されても、
無関心でいられる。
しかしこれは、
カブトムシの問題ではない。
人間の問題である。
すこし知恵のある人間なら、
不運にも自分が例外側になってしまったときの哀しみや恐怖を想像することができる。そして予めそのようなことが起きた場合のことをあれこれ考え、想像し、備え、保険、対策に着手する。
そして
少しでも共感能力のある人間なら、既に少数側になって不自由な思いで生きている人たちに共感し援助活動や理解に努めることだろう。そしてこれこそが自分がそのような立場に立ったときのための賢い保険行動である。東北の被災者も、別の地震の時は支援した側だったことだろう。
こういう問題こそが
文系世界の真骨頂
と言えないだろうか。
恋愛行動などつまらぬ例のひとつに過ぎない。経済にせよ、消費者行動にせよ、教育理論にせよ、同じ問題はいくらでもあるだろう。
性同一性障害はカブトムシにもあるかもしれないが、誰もそんなことは問題にしないし、関心もなければ調べる意味もない。
人間だからこそ、彼らは声をあげたのだ。そして彼らは悪者でも変人でもなかったのだ。
万人に共通の、ベストのカリキュラムが、うちの子には全く合っていないかもしれない。そのせいで能力が発揮できなくても、原因はその子の努力不足ということにされ、悪者にされて泣き寝入りしなければならない。なんてどこにでもありそうな話である。
そして悪者にされるといえば、冤罪事件がそのものである。
1000人中10人くらいは間違って逮捕され有罪になっているかもしれない。警察だって人間がやっている以上間違えはあるに決まっている。最近でもなり済まし脅迫メールで複数の人間が誤認逮捕され、しかも有罪のまま処理されていたことは記憶に新しい。
1000人の死刑囚のうち10人くらい間違って逮捕された無実の人だったとしても、科学的に考えれば警察はよく頑張っているといえる。世間全体としてもそれで治安が保たれているなら、安全を保証するための小さなミスに過ぎない。だから依然として死刑制度には根強い人気がある。
誰も、自分が、その10人の犠牲者の側になるとは考えないからだ。
誰もがカブトムシのことを考えるように、人間のことを考えている。
そしてこれこそが理系(すなわち科学)の発想なのだ。
しかし、
本当に自分が、その10人の側になったとき、
そのときこそ
これが科学の問題でないことに気が付くはずなのである。
これは科学の問題ではない。
自分が生きるか死ぬかの問題なのである。
不幸なことに、現在の日本では冤罪に巻き込まれたときには既に手遅れなのだそうだ。日本の裁判で逆転判決が出ることは極めて稀で、一度死刑になったら覆すのは難しいという。
真犯人が警察関係者だったり大物政治家や実業家の関係者だったような場合は大変だろう。一刻も早く生け贄のニセ犯人に死んでほしいに違いない。口封じのために。そして彼らにとってもそれは生きるか死ぬかの勝負である。
だから死刑はあった方がいい。犯人への憎悪を煽って世論を味方につけ、早く殺してしまいたい。
もはや
いうまでまないが、
カブトムシを研究するのが理系
人間を考えるのが文系
である。
数学が苦手なら文系
暗記が苦手なら理系
そんな判断基準が霞んでくる。
仮説6
バカとは、例外側にいる自分を想定できないこと。あるいは想定しようとしないこと。