
知らない人について行っちゃいけません。
知らない人は悪い人?
まるでよそ者を排除しようとする偏見みたいです。
知らない人・・・
「素性のしれない人」
ともいいます。
「素性のしれない人(知らない人)」が特別な注意対象とされるのには何の意味があるのでしょう?
「よそ者」に対する、頭ごなしの偏見ではなしに考えてみましょう。
これは
「私の知り合いは善人、
私の知らない人は悪人」
という意味でないことは当然である。
客観的に考えれば単純に連絡がとりにくいという程度の話である。
しかしこの単純なことが人間関係では大きな影響を及ぼす。
極端な例
小さな村の中でみな顔見知り。という場合を考えてみたい。これは
住所が分かっている。
ということである。
たとえばトラブルがあったとき・・・
そのトラブルとは金銭の貸し借りかもしれないし恋愛関係のトラブルかもしれないし、何でもいいのですが、人と人が付き合えば何らかの衝突やすれ違いは必ず起こるし、それが人間関係というものなのだからそれは当然のこととする。
とにかく
小さな村で、互いにみな顔見知りであれば
たとえ金の貸し借りでトラブルがあっても、相手の居場所が分かっいるのだから
「早く金返せよ」
と言い続けることはできる。近所の人に言ってもらうこともできる。
仮に金借りたまま遠く逃げてしまったとしても、盆と正月にくらいはお墓参りか両親の顔を見にくらい帰って来るだろう。それさえなくても彼の親族や親戚が残っている。金は返って来ないかもしれないが、彼に、自分のせいで残された親族や親戚が村で後ろ指さされたり気まずい思いで生きてゆくことになってしまうということを思う想像力さえあれば、少しは逸脱行為に歯止めがかかるだろう。
私の知り合いならみな善人、
私の知らない人はみな悪人
という訳ではない。
小さな村の中にも、
悪い人、嫌な奴、暴れん坊は一定の割合でいるだろう。
もとよりみんな知り合いってことは、トラブル以前に、誰が悪い奴で、誰が嫌な奴で、誰が金返さない奴で、誰が酒癖悪い奴で、誰がすぐキレる奴で・・・
そういうことは予めだいたいわかっている場合が多いだろう。
一方、
行きずりの見知らぬ人もその大半は善人のはず。
もちろんそのなかにも悪人や嫌な奴や暴れん坊はいるだろうが、その割合は小さな村の知り合いたちと似たようなものだろう。
しかし、素性の知れぬ相手の場合、たとえ善人であっても、連絡がとりにくい(アクセスが難しい)ということが、素姓の知れた人とその距離を決定的に隔てている。
善人であろうと、
悪人であろうと、
いざというとき逃げやすいという状況がその違いである。
最初から詐欺師や悪人であった場合はその結果は目も当てられない。
善人でさえ、束縛や監視の強制力が小さい状況下ではモラルのハードルは普段より下がるだろう。単に連絡するのを忘れてたということが音信の絶える原因だったりすると、ついでに借りを返すのも忘れてしまうかもしれない。はじめから騙すつもりだった場合に比べれば悪気はないが、泣きをみる者の立場からすれば、その結果に大差はない。
だけどそれでも
よその知らない世界への憧れを抱く者は後を絶たない。その理由は詳しくは分からないが、最大の理由は相手だけでなく、自分自身にも逃走可能という旨味があるからではなかろうか。少なくとも狭い世間のしがらみからは逃れられる。
トラブルは自分が遭うだけでなく、自分が起こす側かもしれない。それがお互い様だという覚悟ができていれば割り切った付き合いはできる。だからそのような指向性を持つ人も多く、知らない人同士の交流は現実社会にたくさんある。知らない人同士の交流が全くなければ経済の発展すらおぼつかない。
素性のわからない人と関わって痛い目に遭う人。
v.s.
よく知り合った狭い人間関係の中でしがらみに縛られて不平を言い続けて一生を終える人。
前者は後者をバカといい、
後者は前者をバカという。
インターネットの時代になっても、匿名社会に居場所を見つける生き方と、確実な信用関係の中に安住する生き方とがあることにかわりがない。
どちらが本当のバカか
第三者が公平に判定して結論を出すということはありえない。
なぜなら人間である限り誰もが人生の当事者であり、誰も
第三者
ではないからである。
「私」はどちらを選ぶか、あるいは両方を使い分けるか、
いずれにせよここには客観的結論などあり得ない。あくまで
「私はどう生きたいか」
という主観こそが意味のある真実になる。
この問題では、チンパージーや宇宙人でさえ第三者になることは難しい。彼らもまた社会性動物であろうと推測されるからである。
仮説3
バカとは
自分とは異なる生き方を選び取った人のことを言う。
しかしこの定義だと
バカはお互い様ということになる。
確かに口論している2人が互いにバカと言い合っている姿は、見慣れた光景である。