青梅 251
戦略と戦術、あるいは、目的と手段と言うことで事象ないし
表象を推し量れば、生きると言うことは、はたして目的だろう
か、はたまた何かを果たすべき手段であろうか。つらつら考
えるに、僕にとって生きるとは、目的そのものである。
ではお金はどうだろうか。僕にとってお金は、生きるに必要
な手段である。生きることが終われば、お金は無用である。
芸術はどうだろうか、一昔前、社会主義リアリズム論が盛
んな頃、芸術は社会革命の手段と位置づけられた。しかし芸
術は、何かの為の手段ではない。芸術そもものが目的である。
森羅万象がこのように、目的と手段の二元論で分別できるの
であろうか。目的と手段を兼務することもある。
たとえば、服は目的だろうか、手段だろうか。手段の部分は、
身体を汚れや傷つかぬよう保護することである。おしゃれはあき
らかに目的である。人目に美しく写る為である。
食事は、はたしていかがなものか。物を食べると言うことは、空
腹を満たすこと、つまり肉体の維持ないし増強のために体力をつ
ける、つまり手段としての食事であるが、いっぽうマツタケは何の
栄養もない高価な食べ物であるが、肉体の維持ないし増強にい
ささかの貢献をしないが、さりとて秋になれば珍重される食べ物
だが、ただ美味いがゆえに食べるのであろう。つまり目的として
食するのであろう。
ここまで書いてきて、なかなか論理というものは難しいもので
ある。やはりヘーゲルやマルクスのような、気の遠くなるような
論理展開は、お茶漬けと沢庵を食する文化には不向きなので
あろうか。それとも僕自身の非才ゆえか。如何