早春である。
新入生の小学生がカラフルならんどせるを背負って歩いているのを見ると、昨日のように、ぼくの背中にらんどせるのおもさをかんじる。
記憶ってへんですね。きのうなにを食べたか想い出せないことがあるのに、3,4歳の記憶がリアルにあることがある。
三島由紀夫は生まれて、産湯をつかうたらいがひかるきおくがあったらしいが、凡人のぼくにはまったくありませんが、おかあさんに背負われたときの絹の冷たさや、化粧の匂いなどが、はっきり覚えている。
記憶というものは、どうもビーカに入る水みたいで、先に入った記憶はそのままのこり、後に入るみずはこぼれでるのかもしれない。
3,4歳の記憶がずっとあるのかといえば、ちがうのです。記憶はまだらにあります。
幼稚園のある瞬間、小学生のある瞬間など、それもなんでこんなことを、というようなどうでもいいことを、おぼえているのです。
20歳の夏、友人5人で由岐の海水浴場にいったとき、かってここにきたと確信しました。この海岸は満ち潮になると、砂浜の北のはしのほうに小さな川ができるんです。はじめてきたとおもったのですが、砂浜に立っていつかきたな、そして満ち潮になると足元が川になるな、と感覚がかんじたのです。
また、高校の入学式の日、クラスメイトのひとりの男子がはじめてあったのに、なぜか彼の家が医者をしているとかんじました。これは記憶とは少し違うものかもしれないが、いや、かってあっていたのかもしれない。
あっ、そろそろ仕事にいってきます。でわー