寒波到来
寒いです
寒いの嫌です
あちこちの梅の花が震えています。
七十二候では『黄鶯睍睆うぐいすなく』
頃だそうです。
梅にうぐいす…
春告げ草に春告げ鳥…風流ではありますが、
やって来るのはメジロばかりです
メジロはうぐいすよりも鶯色(うぐいすいろ)に近い毛色をして可愛いです
紅梅にもたくさんの色があるようですが、なかでも白がたっぷり混ざった一重梅と薄紅梅の色に惹かれます
平安の頃には、冬のうちから早々と、
萌黄色や若草色に種々の紅梅の色を組み合わせる襲色(かさねいろ)で、
春待ちのお洒落を楽しんだのだそうです
いつの時代もいくつになっても女子のこころは一緒だなあ、と嬉しくなりますね
さてさて、
またまた、
昔々のお話です。
実家の古い家の板の間には堀ごたつがありました。
そのこたつの底は変わっていて、、、
木の灰がたっぷりと一面に敷き詰められていました
朝昼晩にできるかまどの燠火(木の燃えたあとにできる赤々としたもの)を灰取り(すくうもの)ですくってきて、何度も運び入れ、底全体に広げますと、、、
熱々のこたつの出来上がり~
いえ、熱すぎて入れません
火傷します
燠火が消えぬうちに今度は木炭をばら蒔いて火をおこします
昔々は山のてっぺんに炭焼小屋がありましたので、
練炭の節約に一役かっていたのでしょうね。
練炭は便利で長持ちしましたが、こたつの中央辺りしか暖かくないので、
手間はかかったのでしょうけど、全体があったかい燠火と炭のほうが私は好きでした~
で、
その仕組みから、
堀ごたつは下から炭火焼きされるわけですね。
当然足を垂らすので、足置きが必要です。
金網では熱いし、もちろんそんなに大きな焼き網が売ってる時代ではなかったので、
手作りです。
母の。
はい、父ではなくて、母です
せいろ蒸しに使う、す巻きよような物、サナと呼んでいましたけど、
竹を割って編んだものです。
竹かごのように隙間をあけて、組んだ竹はカズラで結び留めしてあって、こたつの下の方の淵にカパッと敷くようにできていました。
まるで大型のバーベキューですね。
毎年晩秋になると、青竹のサナが作られ、炭火で炙られ、飴色に変わり、時には燠火が強すぎて炎が出てしまい
危うく火傷か、火事か
黒焦げにされながらも、大人数の足の重みにも耐えていました。
そんな堀ごたつは、
冬の間の女子たちの夜の内職、手間稼ぎの場でありました
川向こうにかご屋さんがあったのですが、そこで多種のかご作りに使う基礎編みの部分の内職を冬の間に請け負っていたのです。
幼い頃は、父の妹達が学生でしたので同居していました。
みんなでこたつを囲んでやる竹編み。。。
ちっちゃいうちから見てましたので、私達も早いうちからできるようになりました。
もちろん簡単な平織りだけですが、これが楽しくて
1㎝幅位の薄くスライスされた竹を並べて、中心から交互に編んでいくのですが、
上手、上手と褒めてもらえると、自分も大人の仲間入りして役に立っているようで嬉しかったものです
もちろん、あとから母が手直しをしていたのでしょうけどね
おば達はちょっと高度な編み方を、母はもっと複雑な色付き竹編みもしていました。
母方の祖父が竹細工の職人でしたので、母の兄妹達はみないろんな竹製品が作れたそうですが(みな他界してますけど)
誰も後を継いだ人はおりませんで、
プラスチックの台頭で需要をなくし、廃業したようです。
そうそう、母の実家のお隣さんは和紙の紙漉きでしたけど、同じく廃業しました
そんな祖父亡きあと、遺された刃物道具一式を譲り受けていたと、最近知らされました。
研ぎに出し、いつでも使えるようにしたそうで、母が元気なうちに技を伝授してもらうよう弟に言ってはありますが、どうなることやら。。。
材料は取り放題でタダ。
切り出しから加工までできる道具もある。
師匠もいる。
あ〰〰もったいない。
そんなこんなで過ぎる冬の夜なべ仕事は他にもあって、
小さくなったセーターや虫食いのカーディガンなどをほどいて洗っては、
チョッキやマフラーや手袋にしてくれた母。
それは決してお洒落とはほど遠く、
継ぎ足し継ぎ足しされたバラバラのいろんな色の入ったちぐはぐな代物でしたが、
物のない貧しかったあの時代では、あるもので作り替えていく暮らしかたが普通でしたから、
わたしも今もって受け継いでいるようです。
編み物をする母の手に興味津々のわたし。。。
そんな私に余った毛糸とかぎ針を渡し、編み方を教えてくれました。
短い毛糸を結んで繋いで毛糸玉にして、毎日毎日編んではほどいてを繰り返し、いつしかいろんな編みかたができるようになりました
娘を持って思ったのですが、小さい子に編み物を教えるのは大変だっただろうなって
その当時のかぎ針もらってまだ使っています
上が姉ふたりの弟は幼い頃、人形を欲しがるので、母は手作りの物を与えました。
雑誌に載っていたぬいぐるみだったのでしょうけど、
自分の着ていたネルの着物を布団に変え、そのときの残りで縫ったのです。
中には布団の木綿わたをぎゅうぎゅうに詰め、ボタンの目を付け、
手足をボタン留めにして動くようにかえ、お座りもできるように作ってありました
その日から弟にとって大切なぬいぐるみになったのは言うまでもありません
ただ、それは何の動物なのかさっぱりわからなかったのですが、
だって古びた渋い柄入りのそれがテディベアだったと知るのはずっと大人になってからです
田舎の山で育ちテディベアとは無縁で生きてきましたからね~
あはは、
当時の母にはかなわないなあと、振り返り思ってしまいます
春待ちの刺し子たち。
オリジナル図案でまた作りました。
薔薇とサクラソウです。
寒いです
どうぞ、皆さまお気をつけくださいね。
今日も長文にお付き合いくださいまして、ありがとうございます
寒いです
寒いの嫌です
あちこちの梅の花が震えています。
七十二候では『黄鶯睍睆うぐいすなく』
頃だそうです。
梅にうぐいす…
春告げ草に春告げ鳥…風流ではありますが、
やって来るのはメジロばかりです
メジロはうぐいすよりも鶯色(うぐいすいろ)に近い毛色をして可愛いです
紅梅にもたくさんの色があるようですが、なかでも白がたっぷり混ざった一重梅と薄紅梅の色に惹かれます
平安の頃には、冬のうちから早々と、
萌黄色や若草色に種々の紅梅の色を組み合わせる襲色(かさねいろ)で、
春待ちのお洒落を楽しんだのだそうです
いつの時代もいくつになっても女子のこころは一緒だなあ、と嬉しくなりますね
さてさて、
またまた、
昔々のお話です。
実家の古い家の板の間には堀ごたつがありました。
そのこたつの底は変わっていて、、、
木の灰がたっぷりと一面に敷き詰められていました
朝昼晩にできるかまどの燠火(木の燃えたあとにできる赤々としたもの)を灰取り(すくうもの)ですくってきて、何度も運び入れ、底全体に広げますと、、、
熱々のこたつの出来上がり~
いえ、熱すぎて入れません
火傷します
燠火が消えぬうちに今度は木炭をばら蒔いて火をおこします
昔々は山のてっぺんに炭焼小屋がありましたので、
練炭の節約に一役かっていたのでしょうね。
練炭は便利で長持ちしましたが、こたつの中央辺りしか暖かくないので、
手間はかかったのでしょうけど、全体があったかい燠火と炭のほうが私は好きでした~
で、
その仕組みから、
堀ごたつは下から炭火焼きされるわけですね。
当然足を垂らすので、足置きが必要です。
金網では熱いし、もちろんそんなに大きな焼き網が売ってる時代ではなかったので、
手作りです。
母の。
はい、父ではなくて、母です
せいろ蒸しに使う、す巻きよような物、サナと呼んでいましたけど、
竹を割って編んだものです。
竹かごのように隙間をあけて、組んだ竹はカズラで結び留めしてあって、こたつの下の方の淵にカパッと敷くようにできていました。
まるで大型のバーベキューですね。
毎年晩秋になると、青竹のサナが作られ、炭火で炙られ、飴色に変わり、時には燠火が強すぎて炎が出てしまい
危うく火傷か、火事か
黒焦げにされながらも、大人数の足の重みにも耐えていました。
そんな堀ごたつは、
冬の間の女子たちの夜の内職、手間稼ぎの場でありました
川向こうにかご屋さんがあったのですが、そこで多種のかご作りに使う基礎編みの部分の内職を冬の間に請け負っていたのです。
幼い頃は、父の妹達が学生でしたので同居していました。
みんなでこたつを囲んでやる竹編み。。。
ちっちゃいうちから見てましたので、私達も早いうちからできるようになりました。
もちろん簡単な平織りだけですが、これが楽しくて
1㎝幅位の薄くスライスされた竹を並べて、中心から交互に編んでいくのですが、
上手、上手と褒めてもらえると、自分も大人の仲間入りして役に立っているようで嬉しかったものです
もちろん、あとから母が手直しをしていたのでしょうけどね
おば達はちょっと高度な編み方を、母はもっと複雑な色付き竹編みもしていました。
母方の祖父が竹細工の職人でしたので、母の兄妹達はみないろんな竹製品が作れたそうですが(みな他界してますけど)
誰も後を継いだ人はおりませんで、
プラスチックの台頭で需要をなくし、廃業したようです。
そうそう、母の実家のお隣さんは和紙の紙漉きでしたけど、同じく廃業しました
そんな祖父亡きあと、遺された刃物道具一式を譲り受けていたと、最近知らされました。
研ぎに出し、いつでも使えるようにしたそうで、母が元気なうちに技を伝授してもらうよう弟に言ってはありますが、どうなることやら。。。
材料は取り放題でタダ。
切り出しから加工までできる道具もある。
師匠もいる。
あ〰〰もったいない。
そんなこんなで過ぎる冬の夜なべ仕事は他にもあって、
小さくなったセーターや虫食いのカーディガンなどをほどいて洗っては、
チョッキやマフラーや手袋にしてくれた母。
それは決してお洒落とはほど遠く、
継ぎ足し継ぎ足しされたバラバラのいろんな色の入ったちぐはぐな代物でしたが、
物のない貧しかったあの時代では、あるもので作り替えていく暮らしかたが普通でしたから、
わたしも今もって受け継いでいるようです。
編み物をする母の手に興味津々のわたし。。。
そんな私に余った毛糸とかぎ針を渡し、編み方を教えてくれました。
短い毛糸を結んで繋いで毛糸玉にして、毎日毎日編んではほどいてを繰り返し、いつしかいろんな編みかたができるようになりました
娘を持って思ったのですが、小さい子に編み物を教えるのは大変だっただろうなって
その当時のかぎ針もらってまだ使っています
上が姉ふたりの弟は幼い頃、人形を欲しがるので、母は手作りの物を与えました。
雑誌に載っていたぬいぐるみだったのでしょうけど、
自分の着ていたネルの着物を布団に変え、そのときの残りで縫ったのです。
中には布団の木綿わたをぎゅうぎゅうに詰め、ボタンの目を付け、
手足をボタン留めにして動くようにかえ、お座りもできるように作ってありました
その日から弟にとって大切なぬいぐるみになったのは言うまでもありません
ただ、それは何の動物なのかさっぱりわからなかったのですが、
だって古びた渋い柄入りのそれがテディベアだったと知るのはずっと大人になってからです
田舎の山で育ちテディベアとは無縁で生きてきましたからね~
あはは、
当時の母にはかなわないなあと、振り返り思ってしまいます
春待ちの刺し子たち。
オリジナル図案でまた作りました。
薔薇とサクラソウです。
寒いです
どうぞ、皆さまお気をつけくださいね。
今日も長文にお付き合いくださいまして、ありがとうございます