今日ヨガのプラクティスでダウンドックポーズをしていた時、ちゃんとアライメントされていたため、まるでそこに関節がないかのような、一瞬体の全てがないという感覚を味わった。とても不思議で幸せな感覚だった。

 

これと同じ感覚をヨガの最後のリラクゼーション、シャバサナをしている時にも体験したことがあった。意識があるけれど、体が存在していないという感じだ。

 

ヨガ哲学でいう、自分は体でも心でもないという感覚。


色々な言い方で言われている、人は誰しもが皆神様の分け御霊とか、中村天風先生の人は宇宙霊からのワンドロップとか、つぶつぶでいうアマという根源とつながっているとか、死んだら魂は元いたところに帰っていくとか、大宇宙と小宇宙とか。

 

なんとなくその感覚が体感できた瞬間だったのかもしれない。生きているけど、体がない、隔てがなく、自分は体でも、心でもない。そしてそれは生きとし生けるものものが全て同じ。だからこの隔てがない状態では他の全てと融合している。

ひょっとしてこれが俗に言われているワンネス???

 

家という壁で外と中が仕切られているけれど、家の壁を取り除くと、外と中は同じなように、


人間も体、皮膚という壁があるけれど、それを取り除いてしまうと自分の中の絶対に変わらない部分はまわりと同じなのかもしれないと感じた。

 

魂はみな出どころは一緒ということを知るために、肉体という壁を頂いて生まれ、自分は体ではないという逆のことに気づいていくのが生きていくということなのかもしれない。

 

生きている間は体をもっていて、手足や声という個性を表現する道具をもっている。それぞれが個として個性をもって生きていくのは、皆違った経験から学んで、魂を成長させるため。だから、違っていい。でも。その体を取り除いてしまった時には、皆実は同じなのだと。目に見える形は違うけれど、例えば、人間とか、花とか、動物とか。でも皆同じところからきている。

 

体の中の細胞も同じ。細胞一つ一つは、細胞膜という壁があって隔てられ、個性があるけれど、浸透圧で結局は中も外も同じ。そしてその違ったものが集まっているものが私。私の細胞=私、私=宇宙

 

それがわかってしまうと、全ての物が違うけど、でも同じ。だから、生きとしいける全てのものがたまらなくいとおしい。そして、どこにいても、何をしていても寂しくない。いつでも自分は宇宙と繋がっているから、絶対に何があっても大丈夫と思える。

 

でも、体や目に見えることがあることで、それがわからなくなってしまう。でもそれがないとわからない。

という何とも矛盾したカラクリを神は謎解きのように用意してくれたのだ。

 

そんなことを考えていたら、なぜつぶつぶの雑穀スープを飲んだ時に、細胞レベルで幸せになるのかが分かった気がした。鍋の中で一つ一つのつぶつぶという雑穀たちが火と水と塩の力で壁をなくし、他の材料と融合していく。そのワンネスを頂くからなのだと。

 

すでにワンネス体験をしている幸せな一つ一つのつぶつぶや野菜たちが私の体に入ってきて、体の中でまた新たな融合がおこる。感謝していただいたら、幸せな波動と幸せな波動でそれは相乗されていくのだ。

 



つぶつぶに出会う前ローヴィーガンだったときに果物や生野菜ばかり食べていた。かれらの壁を唾液だけで溶かそうとしても、それは無理で、彼らがワンネスになるには、私の体の中で相当色々やらなけばならなかったのだなと、今気づいた。

 

すでにワンネスの波動になっているものを頂くのと、体の中でその作業をするのとでは全然違うのだ。

 

料理には火が必要なように、ヨガではタパスといって、火、バーニングすることで魂の浄化ができると言われている。アサナ、ヨガのポーズをやり続ける目的、しかもこんなポーズ必要あるの?というぐらい難しいポーズをやる理由は、それをやることでまっすぐになり、痛みや緊張のない体を持つことで、このワンネスを体験するためなのかもしれない。

 

今日の気づきは壮大だった。