ユネスコ『世界の記憶』

上野三碑(こうずけさんぴ)










日本国内で現存する平安時代以前の古碑は
わずかに18例に過ぎず

高崎市域における
三例の集中は極めて特筆されます




石碑を立てる文化は

中国から朝鮮半島を経由し
飛鳥時代にもたらされたものです

このため
当地域の豪族の地域経営には
渡来人(新羅系)が参加し
三碑の造立にも大きな影響を与えたと考えられています



上野三碑は
古代アジアの文化交流を示す重要な記録物として
平成29年にユネスコ『世界の記憶』に登録されました







上毛カルタでこのように⬇️うたわれる
多胡碑に行ってきました







覆屋の中で


大切に守られています



こちら⬇️






地震などで崩れても平気なように?

クッションみたい


館内のレプリカで本来の姿を見ることができます





そうそう
ここは
多胡碑記念館



見学は無料です🎵






多胡碑は

地元の人々に

『羊様』と拝まれ大切に守られてきました




碑文には☝️『藤原尊』と藤原不比等の名前も刻まれています





館内で放映されているビデオがなかなか良かったです


古墳文化が終わり



仏教文化が
広がりゆく時代なのですね


(上毛三碑に記されたことの具体的な説明)









上野三碑の部屋







⬇️山上碑
完全な形で残る日本最古の石碑
天武天皇の時代(681年)に造立されました


碑文は
佐野三家(さのみやけ)を管理した豪族の出身である黒売刀自(くろめとじ)とその子である長利僧(ちょうりのほうし)の系統を述べたもので
隣接した山上古墳に埋葬されたとみられる黒目刀自の追善供養の性格を併せ持っています






こちらは金井沢碑






碑文から

大宝律令(701年)以後に定まった行政制度(国郡郷里制)の施行が確認できるほか

郡郷名を好字で二字に改訂することを命じた和銅六年(713年)の
政令の実施も確かめられます
これに伴って
従前の『車』の表記は『群馬』(読み方はそのまま『くるま』)の二字に変更され
今日の県名のルーツとなっています





この辺りは

渡来人が多く住んでいたことが分かっています





多民族共生社会











いしぶみの里




多胡碑にもその名を記された

藤原不比等ですが


『竹取物語』のなかで
車持皇子として登場します

(不比等の母親が車持与志古と言われています)
車持氏は かみつけの里の豪族です










今日は

友人の薦めで

おとなり埼玉の

さきたま古墳公園へと行って参りました


たくさんの古墳を見たり登ったりしてきましたよ



もちろんひとりでね(^-^)




後日アップしますね





帰り道ね


ずっと赤城山が見えるんですよ


やっぱり
群馬はいいな

群馬の古墳は凄いな/_/_って思いながら

車を走らせました



きっと
中央に負けないくらいの
技術集団がいたのですね

それは渡来人かもしれない

豪族も渡来系の豪族かもしれない


勿論
元々ここで暮らしていた縄文人もいるでしょう


出雲王国を追われた人たちもいるかもしれない


中央の覇権争いに負けてやって来た集団もいるかもしれない














そうそう

これも面白いなと思いました




写真真ん中あたり↓↓↓




ではまた👋