
私が開けたのは、この国の本当の姿ーー。
これは、憂を帯びた伊藤さんの横顔に添えられた一文。
パンフレットをめくると目に入るこの一行こそ、伊藤さんが本作で描きたかったことだ。
本作は事件後に焦点を当てている。
そうすることで、”この国の本当の姿”が浮かび上がるから。
それがタイトルに呈したBLACK BOXだ。
2015年4月3日。
25歳の伊藤さんは都内のホテルで性暴力の被害を受ける。
映画の冒頭、ホテルに横付けされたタクシーのテールが写っている。
夜のため周囲は暗く、ホテルから漏れる光がタクシーをぼんやとりと照らしている。
後続車の車載カメラの映像と思われるが画質は粗い。
黄色いハザードが点滅する車から、当時TBS報道局ワシントン支局長の山口敬之と思しき男が降りてくる。
傍にはホテルのドアマン。伊藤さんはなかなか降りてこない。
しばらく経つと山口が腰を折って上半身を後部座席に差し入れる。
山口が身体を戻すとようやく伊藤さんの姿が現れるが、あきらかにぐったりとしている。
映像がホテルのロビーを上からとらえた画角に切り替わる。
首をうなだれて足元がおぼつかない伊藤さんを、山口が抱きかかえるようにして、まるで引きずるようにホテルの奥に消えて行く様子が映っている。

翌朝、目を覚ました伊藤さんは、性被害に遭ったことを自覚する。
全裸で、身体のあちこちにアザがあり、股間に刺すような痛みがあったからだ。
※加害者・山口敬之の著作
伊藤さんは被害から5日後に警察に被害を訴える。
しかし、加害者が有力記者だとわかるや、被害届は受理されず、あきらめるように諭される。男の体液も残っていないし証拠が弱いという。
それでも事件から26日後に高輪警察署が被害届を受理。容疑は準強姦容疑。
以降、捜査が進み、逮捕状発付に至るが、直前で執行停止となる。
執行停止の判断を下したのは、当時刑事部長だった中村格。
加害者の山口と同じく、中村も当時首相であった安倍晋三の関係者だ。
捜査一課の刑事が伊藤さんに、突然逮捕が中止されたと明らかにしている。
成田空港で、帰国した山口を逮捕すべく待ち構えていた4人の刑事の前を、山口はどこ吹く風とばかりに悠々と通りすぎて行ったと。
刑事は、上層部でどんな動きがあり執行停止に至ったのかわからないと、伊藤さんに溢した。
これがBLACK BOXだ。
その後、2016年に刑事事件は不起訴となり、2021年9月、中村格は警察庁長官に就任する。
伊藤さんは2017年に実名公表(顔出し)を決意し、民事訴訟を提起する。
不起訴のままだと、自分が受けた被害は無かったことにされてしまう。
権力によって沈黙を強いられ、泣き寝入りしてしまえば、権力者の思惑どおりだ。
伊藤さんの家族も顔出しに反対していた。
しかし、自分の他にも性暴力に遭い、泣き寝入りしている人は大勢いる。
私はあきらめずに声をあげ続ける。そんな姿を、性被害に遭ってきた人たちに見せることが、私に唯一できることだ。
その後、一審(東京地裁)、二審(東京高裁)、最高裁と伊藤さんが勝訴し、伊藤さんは性被害にあったことを自らの手で証明した。2015年4月4日から7年3ヶ月後の2022年7月7日、伊藤さんは、権力者が隠蔽しようとしたBLACK BOXの蓋を、自身の手でようやくこじ開けたのだ。とはいえ、被害者自らが自分は性被害者だと証明しなけばならないこの国の司法は、まともに機能していない。
本作では、被害に遭った直後から最高裁で勝訴するまでの経緯を、録音した音声や自撮り映像で生々しく描いている。
被害者本人が吐露する不安や迷いやあきらめが痛々しくて、観ていて胸が苦しくなる。
25歳のとき、報道局での仕事を夢見て山口に話を聞きに行っただけなのに、酩酊状態にされた挙句にレイプされ、それを大きな権力が隠蔽した。罪もないひとりの女性がいきなり奈落の底に突き落とされた。彼女がどれほどの絶望を味わったのか、その深さや暗さを想像することはできないが、本作を見て寄り添うことはできる。本作の意義はこうしたところにもあると思う。
「巨悪あり。法、これを裁けず。」
安倍晋三を襲撃した山上徹也の言葉だ。
森友問題で「私や妻が関係しているなら議員辞職する」。安倍晋三は野党の追及に対して、国会でこう大見栄を切った。
この答弁と辻褄を合わせるために、内閣、財務省、近畿財務局は議事録を改ざん・隠蔽し、その皺寄せで真面目な公務員が自ら命を絶った。
BLACK BOX DIARIESに、伊藤詩織さんが自撮りしながら遺言を残す場面がある。
伊藤さんは幸いに一命を取りとめたが、もし亡くなっていれば、伊藤さんが性被害に遭ったことは、無かったことにされていた。
皮肉なことに、山上徹也が安倍晋三を襲撃し、安倍が命を落としたのが2022年7月8日。伊藤さんが民事で勝訴を勝ち取った、翌日だった。
伊藤さんが被害を受けたその日、桜が街を淡く彩っていた。
それから数年間、伊藤さんは桜を見ることができなかったと言う。
本作は1月3日から上映館が増えて、全国展開される。
一人の女性が、人としての尊厳をかけて、大きな権力や心ない非難の声と戦った記録が、多くの人の心に届けばよいと思う。
そして、いつの日か伊藤さんが、木漏れ日を浴びながら桜並木の下を笑顔で歩ける日がくることを、心から願います。
