どうも、Tom Yum 君です。

 

素朴な疑問なんですがね、コロナコロナって、この騒動は一体いつ終わるんでしょうか?

 

いや、ウイルス側が変化して「終わる」という話ではなくて、人間側が「いつ終わらせるのか」という疑問です。

 

オミクロン株というのが出てきた、というニュースが出てからまあまあ時間が経ちましたが、その危険性を示す重傷者数とか死者数というのはほとんど増えていません。危険性というのは、感染力だけで測るものではないでしょう。

 

そうであるならば、危険性が少ないと思われるものへの対策としては、過剰と言わざるをえないのではないでしょうか?

 

こういうことを言うとね、「いや、まだわからないことが多いから過剰対策でも受け入れるしかない」ともっともらしいことを言われ、一人でも死者が出ると、「やっぱり危険だ~」とか、「感染しなければ救えた命」という道徳感のようなものを持ち出して、攻撃されます。

 

でもね、よく考えてほしいんです。

 

確かに、社会全体に感染者がいない、少ない、というのはどこかでウイルスと遠く離れた場所でニュースを見ている多くの人にとっては安心材料かもしれません。そして、そのような対策と無関係の所にいる人からすれば、「よ、岸田総理、よく言った!」となるかもしれません。なぜなら、その人には、決して、隔離された生活のことを想像することもできないでしょうからね。

 

でもね、ただ飛行機に乗り合わせたとか、たまたま近くにいたとか、そういうことだけで突然濃厚接触者に指定されて14日間も隔離される、ということの重みはどうなるんですか?あなた方、想像力かけてるんじゃないですか?

 

A いやまてと。想像力だと?それならば、コロナに感染して重症化した家族の気持ちを想像できるのかよ。きっと後悔する。それなら、厳重な対策をして感染させない方がよっぽどいいだろ?

 #いつのまにか会話スタート

#誰

 

B いや、あなたはコロナで重症化した人の家族ではないですよね?

 

A だからいいっていう話?

 

B あなたには交通事故で亡くなった人の遺族の気持ちがわかるのですか?ならばなぜ、車社会をやめようと声を挙げないのかい?コロナで職を失った人はどうなる?家庭内暴力の危険がある人はどうなる?こどもの自殺も増えているって言うじゃないですか。お店がつぶれた人もいるんですよ。コロナコロナと社会が騒ぐお陰で、事業がうまくいかずにコロナの二次的影響で死んでしまう人もいるんですよ?そして、社会は今こう考えているようにさえ思える、すなわち「直接的な死は重くて、二次的な死は知ったことではない」と。

 

A それは論点のすり替えだし、ちょっと極端だね。一つの小さなお店に人がこなくなるから新しい感染症に対策をしないなんて、そんなバカげた話はない。

 

B おっと本音が出ましたね。あなた、最初は、「一人でも命が救えるなら」うんぬんかんぬんと考えていたのではなかったのですか?それなのに、小さなお店の一つは犠牲になってもいいと、今その口がおっしゃったんです。ご自分でもわかったでしょう。あなた方の考えはこのように矛盾に満ちているということなんです。

 

A 何をばかな。お店がつぶれても死ぬことはない。生きていれば再起することだって可能だ。それは意思の問題である。しかし、感染症は意思でどうにかできるものではないし、知らないところで人に移して死なせる原因になることだってあるんだ。ならば社会として対策に協力することは必要だろう!

 

B ええ、確かにおっしゃる通りです。ですが、私が言いたいのは、死に方によって社会が関心を寄せる度合いが異なることがおかしいのではないか、ということなんですよ。オミクロンというやつで「初の死者」が出たことで、「やっぱり怖い、厳重対策だ!」となるのはちょっと異常な世の中ではないんですか?県内の感染者が1人出たからと、全県休校はやりすぎではないですか?だって、毎日交通事故で人が死に、自殺者がいて、癌などの病気で人が死に、病気で寝たきり状態に陥ったりとか、いろんなことで苦しんでいる人がいるのに、もちろんそのほとんどは報道されないし、その苦しみに社会は寄り添うことはできていないばかりか、そもそも知りもしない。症状もなく、検査でも陰性だった人が、濃厚接触者という新たな定義に従って、いきなり子連れで、狭いビジネスホテルに缶詰め状態にされることの意味がわかっていますか?社会のために我慢しなくては、とそんなことが思える人ばっかりだと思いますか?そんな人の犠牲の上に成り立つ社会の安心安全って、いったいそこにどんな価値があるというのですか?まるで、カラマーゾフの兄弟でイワンが主張する「虐待で悲しみ苦しむ子どもを神は放っておいて、その先にある未来の調和とやらに一体なんの価値があるんだい、俺は認めないね〜」という話に似ていると思いましたよ。さあ答えてください。

 

A 僕はカラマーゾフの兄弟なんて小難しい小説は読んだことがないから知らないね。

 

B カラマーゾフは是非読んでください。ならば続けましょう。未来の調和のために、罪のない子どもは悲しみ、苦しい思いをして、人柱となって、何の関係もない、いわゆるコロナ脳の人たちが安心する社会のために犠牲になる必要があるというのですか?どうです?コロナとなれば、怖い怖い、今は我慢するしかない、と騒いで、明らかに過剰な対策を求めるんですよ。WHOのテドロス事務局長は”An event cancelled is better than a life cancelled.”と述べました。年末イベントが無くなるのは死ぬよりマシだ、ってことですよ。これはほとんど脅迫のようにすら思えますね。人間は、生きるために生きているのではないですから。そして、人生最後のクリスマスを孫と過ごすことを人生最後にして最大のイベントのように考えている人だっているでしょうね。

 

A 君が過剰かどうかを判断しているところが笑える。君は科学者か何かかい?

 

B ええ、まさにそこなんです。素人には過剰か不足かどうかすらわからない、わかるはずもない。だからこそ、日本社会や世界は、コロナを軽んじる人ととにかく厳重対策を求める人、という感じで完全に分断されてしまっているじゃないですか。人は見えないもの、知らないものを恐れますからね。実際は、ウイルスの本当の危険度とは無関係に「社会が危険だと思っている」ということなんです。私は、この社会の状況に我慢がならないのです。

 

A 君が我慢ならないからといって、社会に感染症が蔓延してもいいというロジックにはならないよね。

 

B ええ、その通りです。ですが、私が求めたいのは、きちんとしたエビデンスに基づいた適切な対策を求めたい、その一点です。

 

A エビデンスがないのだから、それがわかるまでは過剰と言われても、対策を続けるしかない。

 

B どうやら、我々の議論は決して交わることがないようですね。もう疲れました。だからコロナの話は書きたくなかったんですよ。どこまで行っも平行線。もう社会の圧力に屈して、マスクでもなんでもつけましょう。

 

皆様、上の会話を読んで、どのように感じますか?

 

 

終わり。