2度と出産には立ちまうまいと決めた11年前の出来事は、男として夫としての妻との今後の関係性を占う出来事となった。



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いや、少しだけ潜在意識のレベルで、占ってしまっている、と言う程度の話ではある。



そのことをいちいち引き合いに出されて、あの時のことを忘れるな、と言われるわけではないが、初めての子供を産んだ期待と不安と苦痛と喜びの瞬間に立ち会って、力になるどころか、膝から頭から崩れ落ちて足を引っ張るようなことになったのだから無理もない。



一応、ナッパの攻撃から悟飯を庇って死んだピッコロ、のようなきっかけとなって、悲しみと怒りに我を忘れた悟飯が繰り出した魔閃光くらいの力を妻に発揮せしめることには役立ったわけだが。



いずれにしても、もはや2度と立ち会いはやらないことを心に決めて、妻とも完全に一致した。



あのような失態を繰り返すわけにはいかないし、毎回虎穴に入ってばかりいては、虎に喰われて死んでしまう確率が上がるのだ。

#立ち会いは虎穴なのか?



ただ、リスクマネジメントの話として、そう決めたと言うことだ。良い悪いの話ではない。



それから3年が経ち、妻は次男を孕った。



その当時、僕らは東京にいたんだけど、まさか東京で産もうなどと思うわけもなく、臨月ともなると、妻は長男と共に滋賀の実家に帰省した。



さていよいよ出産という段階になったとき、僕は趣味のカポエイラの練習をしていて、今夜中に生まれるかもしれない、との知らせを受けた。



わかった、明日の朝新幹線で滋賀に行く。今日はカポエイラやってて、滋賀にはまにあわないから立ち会いはしないけど、頑張ってくれ。



「また失神されたら迷惑だから、一人で頑張るわ」



と妻が言ったかどうかは覚えていない。しかし、心境はこんな感じだったはずだ。長男の時の記憶は強烈なのだ。



一人で陣痛に耐えることを想像してみると、どれだけ心細いか、不安か、寂しいか、痛いか、その孤独感は計り知れない。だが、やっぱり男には、あまり想像が及ばない。



喜びの瞬間を分かち合う人もいない。



やっぱり寂しいだろうな。



だが、倒れるよりはマシだ。男が出産に際してできることは何一つないのだから。



出産は、僕的には、人間が最も動物的だなー、と感じる現象である。ご飯もセックスも何もかもがどこか自然からはみ出して、エンターテイメント化しているところがあるような気がする。



純粋に本能を満たす行為ではなく、ファッションだったり、ルーティンだったり。男や女、小さな頃から何となく区別してきて生きてきたが、ここではっきりと大きな役割の違いに気付かされたという感じだ。




女の人は命を育み、生み出すことができる。

男は、きっかけを与えることしかできない。



という次第であり、今から新幹線に乗っても滋賀にはつけないし、立ち会っても役に立つことは何一つない。



いずれにしても明日の朝だ。



そして次の日の昼頃、病院に着いたとき目にしたものは、赤ちゃんケースに入った玉のように美しい真っ赤な顔の赤ちゃんが帽子をかぶって寝ている姿だった。



何と綺麗な顔をしているんだろう。かわいい。



グッジョブ、妻。

次男もうるさいけど可愛いぞ。