黒部光昭選手引退 | .

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J1.J2を行き来し、エレベーターと揶揄されることもある京都サンガFC
今ではプレーオフの不運やらもあり、J2クラブの印象が強い。

しかし、京都生まれの俺は今も応援している。


前述のようなネガティヴなイメージがぬけない京都サンガだが、9連勝したり、年間5位の成績まで残し、天皇杯優勝を成し遂げたシーズンもある。

黒部光昭選手、松井大輔選手、朴智星選手要する京都パープルサンガのオフェンスは当時のJリーグを席捲していた。



朴智星が作る!松井大輔が仕掛ける!黒部光昭が決める!京都の黄金パターンだった。

黒部光昭選手は前年にJ2で30ゴールをあげチームをJ1に引き上げ、翌年はJ1で13ゴール、天皇杯優勝を決めるゴール、ジーコジャパン選出。大ブレイクした2001.2002.2003年。

朴智星が世界に旅立つとチームは負けを重ね、天皇杯優勝を果たしたチームは翌年J2へ。黒部選手自身もここが苦労人生のスタート。

J1チームからのオファーをたくさん受け、セレッソ大阪に移籍をしたのを皮切りに、さすらいJリーガーに。

セレッソ大阪、浦和レッズ、アビスパ福岡、カターレ富山でエースとして落ち着くまで、ホンマ色んなチームを渡り歩いた。J1の各チームでは、セレッソでは西澤明訓選手、レッズではワシントン選手、といった目の上のタンコブの選手を超えれず、不本意なシーズンを送りまくり、知らない間に試合勘の低下、当然、代表からも漏れて、苦しいシーズンを続ける。気がつけば30オーバー。ついにカターレ富山でエースのポジションを掴み、J2残留に貢献。黒部選手がタイに移籍をした瞬間、カターレはJ3に落ちた。大黒柱であったことは結果が示している。

タラレバは意味はないが、京都にずっと残っていたら、エースとして長きに渡って活躍してくれたと思うので残念でならない。コンビを組んでいた松井大輔選手、朴智星選手と比べると、。優れた能力は十分に発揮しきれなかった。人生、選択次第でホンマにかわるもんです。。

私はかつての京都の英雄が、他チームでもスタメンに名を連ねていたら嬉しかったし、スコアラーに名があればガッツポーズしていた!引退は京都の選手としてしてほしかったなー。


黒部選手、お疲れ様でした!

天皇杯の決勝ゴールは忘れません!