「モノガタリ」は必要か | 舞姫の「世界が面白いじゃんね」

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詩人ですが、アニメも、映画も、岡田斗司夫も、絵画も、建物も、怪談も好きなヲタクのブツブツブログ。

 

 

これを読んで

 

ヲイヲイ滝汗天下の灘がどんな人物を育てようとしているの?

と不安になってしまった。

いや、灘がではない。

文科省がどんな人間を育てようとしているのか非常に

心配になった。

簡単に言えば、時間の制約的に

「物語文は高校ではほとんど国語の授業で扱わない」

ということである。

 

思うに物語を読むということは簡単に言って

 

他人の人生を生きることである。

 

読んでいる間だけはその人物(もしくは人物たち)に

憑依するようにまたは守護霊のようにその人に寄り添うのである。

 

自分の人生を生きるのは1度だけだが、

本を読むことで、違う人生を心に取り込むことができる。

 

それはとても貧しい人の人生かもしれないし

未来人かもしれない。

もしくは全然違う星にすむ生物の命の軌跡かもしれない。

 

 

 

私達はいろいろな人の立場

そして、いろいろなシチュエーション

 

それは例えば

殺人を犯してしまったとか

とんでもない人と恋愛をしているとか

宇宙旅行の間に酸素が足りないことに気づいたりとか

なかなか自分の人生では体験できないことかもしれない。

 

それらを頭の中で体験することで

自分だったらどうするのだろうガーンと手に汗を握ったり

こんなことが起きたらいいなラブと憧れを抱いたりするのだ。

 

それも映像作品から入ってくるのとは違い、

自分の想像力を使って場面を構築するのである。

おそらくその時の周りの景色やその人物の声、

あるときは食べ物の匂いまで。

 

トレーニングといってしまうと

身もふたもないが

これをやらないとおそらく私たちの想像力は育たない。

 

ウクライナで戦時下にある人に思いを馳せるときに

私達は多くの想像力を使うだろう。

また、極地帯で起こっている異変に思いを馳せるとき

私達の想像力がなければ、共感も予測も生まれることはないだろう。

 

物語を読むことで世界という概念が拡がるのだ。

 

以前、岡田斗司夫さんがYouTubeで

日本の経営者でSFを読んでいる人が少ないことを嘆いていた。

SFは設定が、自分の置かれている状況とは全く違うことが

多い。

例えば宇宙人が襲ってきて地球人はとても数が減っているという

状況があるとしよう。

その中でどう生きていくか、私達は登場人物たちと一緒に体験し

考えることになるだろう。

 

 

 

 

 

そこで柔軟な発想が育まれる。

それが日本人の経営者に足りないと言っていたのだが、

たしかに周りの読書家を見てもSF読みの割合は少なめだと感じる。

 

誰かの立場に立つこと

 

これは簡単に言えば

 

思いやり

 

ではなかろうか。

 

ひとつ私が以前書いた詩を読んでいただいて

各自考察を深めていただきたい話だと考えている。

 

果たして、物語を読むことは無意味だろうか。

 

 

仕組み

 

世界は大きな塊で

それは巨大な壁でぐるりとおおわれている

そこには無数の窓がついていて

私たちはそれを

1つずつ所有している

(または、あてがわれている)

私たちの役目は

それぞれが 見えるものを

伝え合うこと

 

窓は

色がついていたり

形が違っていたり

なかには

曇りガラスや

雨粒のついたものもあったりして

あげくの果てに

誰かが伝えた風景を

そんなはずがない

とか

正しくない

とか

言い出したりするものだから

まあ、そういう風になっちゃったりするものだから

 

すべての声が出揃わなくては

本当の世界の姿など

誰一人わからないという 仕組み

 

そんなおとぎばなし