白雪の 地に落ち汚れ 軒下に 捨てられ日仰ぎ 天に帰らむ
カキフライ 噛めば口中 潮かおる 夏懐かしき 立春の晩
浦島次郎は大学生である。
週に三回のバイトの帰りには、近道の繁華街を通る。バイト先の片付けが終わった後のことなので、だいたいいつも夜遅くになる。
夜更けの繁華街は、人間の痴態の標本のようなものだ。酔っ払いがいる。性欲剥き出しの男がいたかと思うと、性欲剥き出しの女がいる。浦島はいつもこの繁華街を、一秒でも早く逃れようと駆け足で走り抜けて行く。
その日も同じだった。浦島が早足で歩いていると、路地裏から、奇声が聞こえてくる。低く下ろすような男の叫びと、大きな声を出そうとするが出せずに漏れるうめき声。
おそるおそる覗いてみると、ひとりの男が複数の人間に囲まれ、蹴られ殴られのサンドバッグにされていた。
この街では、よくあることだ。縄張り争いなのか、チンピラどうしの抗争なのか。
いつもなら浦島は見て見ぬふりをして通りすぎるのだが、その日はなぜか、違った。
「おい、お前らやめろ。多勢に無勢は卑怯じゃないか」
きまった。おれって、かっこいい…。
なんて自己陶酔にひたっていると、コワモテの男たちは浦島を取り囲んで、
「何言ってんだおめえ。バカじゃねえの」
と、さっきまで殴る蹴るしていた男をほったらかしにして、浦島をひたすらどつきだした。
「痛ぇ…」
男たちが浦島をひとしきり殴って去った後、本来いじめられていた男が浦島に近寄ってきて、申し訳なさそうに、
「すんません、あっしのために。あなたが来てくれなきゃ、あっしはもっといじめられるところでした」
「いやいや、こっちこそ、すまんね。かっこよく助けようと思ったんだが、フィクションみたいにうまくはいかないみたいだな」
「あっしは亀田と申します。カメと呼ばれてます。この近くにある、小さいスナックのボウイをしてるんでございますが、ママにおつかいを頼まれて出てきたら、あいつらに絡まれてという次第でして」
「そうか、そうか。ならばそのおつかいをはたして早くお店に帰るといい。おれも家に帰るとしよう」
浦島はふらつく足取りで立ち去ろうとすると、亀田は、
「いずれにせよ、あなたは命の恩人だ。ママのスナックはすぐ近くなんでさあ。あっしの背中に乗っかって、せめて傷の手当てくらいさせておくんなせえ」
浦島は亀田の背中におぶさった。
「だんな、息苦しくないですかい」
「胸のあたりを蹴られたせいか、少し苦しい」
「もう少しの辛抱で。耐えてくだせえ」
スナック「竜宮城」につくと、ただならぬ様子の亀田に、ママの乙姫は駆け寄ってきた。
「いったい、どういうことなのです」
「実は、これこれこういうことでして…」
亀田は先ほどまでのいきさつを乙姫に説明すると、
「では、このお方はあなたの恩人なのですね。これはこれは、本当にありがとうございます。何もおかまいできませんが、せめてお召し上がりください」
鯛や鮃のご馳走が出てきた。
乙姫はまことに美人だった。浦島がこれまで見てきたどの女よりも、美しかった。
「浦島さま、このようなものはいかがでしょう」
と、乙姫は藤間流の舞踊を舞った姿を見て、浦島はすっかり乙姫のとりこになってしまった。
この人しか、いない。この人をおれは、一生愛そう。
別れ際に浦島は、
「乙姫さま、もう朝がやってきます。僕はもう帰らなければなりません。しかし、僕はあなたに惚れてしまいました。また、このお店に来てもいいですか?」
乙姫はうつむいて、
「ダメです。ここはあなたのような人が来るところではございません。でも、もしどうしても私のことを思ってくださるなら、その時はこの手紙をごらんくださいませ」
浦島は乙姫から一通の手紙を手渡された。
それから一週間、浦島は寝ても覚めても乙姫のことを考えていた。あんなに美しい人に、この先出会えるのだろうか。
もう我慢できない。スナック「竜宮城」に、もう一度行こう。
浦島は、あのときの手紙を開いた。
そこには一行だけ、こう書いてあった。
「私は、人妻です」
浦島は、少し大人になった。