G20が大阪で開催されました。データの流通についても大きな議題として挙げられていました。
日本の首相の話からはいつものようになにも明確な方向性や具体論がわからないのですが、これについてはデジタル社会になりはじめた20年以上前から、話にはでていたことです。
今や米国のGAFAや中国のBATHなどの台頭で、一部の企業や国にさまざまなデータの寡占状態が加速的に進んでしまっていきています。このこと自体は非常に危険ですし、持つ物と持たざる者の格差によって、社会そのものの格差の要因になるというのは一部頷けます。
ただ、本当にそういうビックデータといわれているものが、私たち人々の生きていく上での本質的な要素なのでしょうか?
一番怖いのは、実はビックデータを重要視するあまり、本来人間の営んできた歴史、文化のもつ重要性、それぞれの文化や民族の違いがどのようにして生まれてきたかを軽んじてしまうことだと思います。
ビックデータを5Gの世界では量子コンピュータを使って分析をし、それに基づきさまざまな判断をすることで、人間が判断をしなくなることのほうが危険です。
現時点で、インターネットの世界ではすでにそれが当たり前になってきており、人間が見たり聞いたりするものの大半はAIによって選別されたものを本人の意思に関係なく体験する状態になってしまっています。
個人がお店にいったり、ポイントカード、ネット、メンバーズカード、アプリなどをつかって売買したりすることの積み重ねがデータになり、ネットで表示される情報はすでにその人向けに選別されたもの。便利に使っているつもりかもしれませんが、実は、偏った情報を無理矢理与えられていて、すでにコントロールされた状態に無意識に陥っています。
本来、私たちは生活していく中で、気候、習慣、伝統、文化、言語、歴史、日々接する芸術などなど、人や自然などを通して体験し学習していくことで、その人なりの判断基準、嗜好、生活の仕方が形成されていくからこそ人間らしく豊かに生きられるのでは….
そういった積み重ねを、数字やデータの集積ではなく、実際に“感じる“形でいかにこれからも人としての生活をしていけるかが重要なのではないでしょうか。
本来ビックデータは道具であって、人間の行動や体験を制御するものではないはずです。
情報についての流通規制がこれからもさまざまな形で各国の中で話し合われると思いますが、あくまで情報は情報、それ以上でもそれ以下でもありません。
ビックデータを分析する側も、分析される側も、数字は数字、それはそれとして、人の豊かな感性を閉じ込めたり、実体験を軽んじたりしないことを切に願います。