~阪神淡路大震災発生から30年~
30年前の今日、一瞬にして襲った、未曾有の大震災。
震災が起こる1分、1秒前まで、寒い冬ながらも被災地に住む皆さんは、平和な朝を迎えるはずでした。
1995年1月17日5時46分
一瞬の大きな地震によって、たくさんの尊い命が奪われ、家や建物は崩壊し、まさに『地獄絵図』を見るようでした。
30年前、高校生だった私は、当時の地震直後の被災地の様子をテレビや新聞などで被災地の焼け野原のような悲惨な町並みを見て、言葉が出ませんでした。
当時神戸に住んでいた、私の父方の伯母宅も自宅が全壊になり、長く仮設住宅で暮らしました。
震災直後、伯母宅に電話をするも、中々連絡を取ることが出来ず、震災からかなり時間が経ってから、要約無事であると連絡が入ったのを覚えています。
震災当時は、インターネットやSNSは殆ど無く、携帯電話も今のように1人1台持つ時代ではありませんでした。
私が住む京都でも、震災においては、震度5を記録しました。
私も当時は高校の部活をしていましたが、偶然その日は朝練習が無く、朝6時に目を覚ますようにしていました。
しかし、あの大きな揺れに気付いた途端、必死で布団を被って身を守った記憶が有ります。
30年経った今でも、これだけ鮮明に当時の様子を覚えています。
私と同じく、阪神淡路大震災を経験した人の心には、あのときの記憶が大きな傷痕のように、深く深く刻み込まれています。
その傷痕は生きている限り、生涯心の片隅に背負っていかなければいけないでしょう。
阪神淡路大震災の後に生まれてきた人たちは、当時の震災のことを伝え聞きながら、今はもう大人になり、仕事をして、中には家庭を持ち、子供が生まれて、立派に生活をしている人たちです。
これから先、10年、20年と時間が経過する中で、阪神淡路大震災を経験した私たちが出来ること。
それは、せめて1年に1度この節目の日に、ほんの一瞬でも震災のことを思い出して、今こうして元気に暮らせていることに感謝をする。
そして、それぞれの言葉や表現で、後世に語り継いでいく。
決して、『風化』という言葉を当たり前にしない。
それが震災を経験した者が出来ること。
阪神淡路大震災から30回目の節目の今日。
