恩田陸 「三月は深き紅の淵を」 講談社 | 気ままな活字中毒者のBook shelf

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読書が三度の飯より好き、しかし時間がない……、でも読みたい!というmayumiの気ままな読書日記

「朱音が最近一番嫌悪しているのは、「自己表現の手段として小説を書いています」と称する人間だった。(中略)「たかが一個人の表現手段に使われるほど、物語は小さくない」というのである。「物語をあたかも自分に隷属するもののように扱うのは物語を貶めている証拠だ」と。
 先に物語ありき。語られるべき、語たらずにはいられない物語自体がまずあって、作者の存在など感じさせないようなフィクション。物語は読者のために存在するのでも、作者のために存在するのでもない。物語は物語自身のために存在する。」
「本物の評論家は、絶対創造者にはなれないってんがあたしの持論なの。それでいて、評論というのは実は完璧な創造なんだけどね。」


「三月は深き紅の淵を」という一冊の稀覯本を廻る四章の物語。
四章全て、雰囲気やシチュエーションの違うオムニバスのような作品群。
意味深に語られる幻の本が主役という一風風変りな物語ですが、ミステリーの要素を含みつつ淡々と進んでいくその様子が酷く静謐な感じがしました。

個人的には、幻の本を廻るゲームに巻き込まれる一章が一番好き。
後半にいくにつれ、現実と虚構がないまぜになってぼんやりと霞んでいくような印象があり、読み手としても「今、ここはどこなのか」という疑問符がちらりちらりと浮かんでくるような気がして、やや戸惑ってしまいました。
途中で手放してしまう人もあるいは多いかもしれません。
しかし、最後まで読み切ると何だかものすごいことを成し遂げたような達成感が生まれます(笑)

読み終えて感じたのは、「これはやはり、四章で一冊の物語なのだ」ということ。
四章全て雰囲気が違うので、「三月は深き紅の淵を」という一冊の本だけを共通項として話が進んでいくのですが、すべて独立した話として読むのもいいけれど、個々の物語の中で語られる小さな欠片を拾い集めるようにして読むと何だかはっとする瞬間があって、それがやけに心地いいのです。

このパズルのピースを拾い集めるような、地道な作業を楽しみたい方は是非。