8.試作した月
「昭和26年10月からモンテ35の設計に入ったが、試作段階ではNKSのシャッターを使ったが、量産型からはハイレマンの処から入れるため、西宮のハイレマン工場に行った。その頃ハイレマンの工場ではストーブを造っていた。モンテ35B(社内での呼称)型用のシャッターだったが、取り付けてみたが調子が悪く、その調整に手間がかかり少量で打ち切った。茶谷さんのものにした後、自社生産に切り替えた。」
原文ママ
モンテ35の試作は10月以降に行われている。あの紙切れにあった映画の封切も5月末辺りなので時期もかなり近い。ただ新世光機の創業の月が分からない。紙切れから察するに5月前後か、10月以前だと思われる。
その後モンテフレックスを試作してみたものの、何らかの理由で製品化に至らずモンテ35に方針を切り替えたと推測する。
創業:1〜5月?
モンテフレックス:5月末〜?
モンテ35の試作:10月〜?
富岡光学のトリローザを5組入れた記述から考えるに、モンテフレックスは数台程度製造されたと思われる。なので5月末から10月の間にモンテフレックスを試作し、10月からモンテ35の試作を始めた…ということではないだろうか。
流石に何月に作られた迄は特定出来なかったが、ある程度絞ることが出来たのは僥倖だろう。
昭和26年5月末〜10月の間に起きた出来事の1つとして、日本はサンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約の調印をしている。
この時日本は主権国家の独立回復という大きな山を超えていたのだ
9.製品化しなかった理由
モンテフレックスがなぜ生産ラインに乗らなかったかは不明だが、恐らく他社の二眼レフとの区別化出来なかったことが一因だと思われる。銘板は凝っているがカメラ自体にさしたる特徴は無く、平凡な性能となっている。
ギア連動の二眼レフカメラはリコーフレックスのコピー、プレスボディの機種が基本多い。しかしモンテフレックスはダイキャストボディにギア連動のやや珍しい構成。
繰出機構は当然省略されているのでボディ正面に張られた金属板にシャッターとレンズを装着する。
ビューレンズが通常の手順で分解できない謎構造で組立も苦戦した。更にシャッターレバーの抑えも無く、常にブランブランの状態と色々未完成の部分が多い。こうした問題もあって試作で終わったのだろう。
10.試作機で試写
No.2