戦後の歌謡曲と二眼レフ④ | 四畳半カメラ大系

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10.昭和30年頃の二眼レフ

 

日本カメラ工業史(日本写真機工業会)を読んでみると、昭和30年頃のカメラの国内状況が分かる記述があったので抜粋する。

 

「昭和30年は、世界経済が戦後最高の活況を呈した年であり、欧米先進諸国では、自動車、家電製品等の耐久消費財の需要が増大し、設備投資が活発化し、わが国でも設備近代化のための投資が盛んとなり、30年産米が大豊作となったこともあって、消費需要が拡大、30年代から32年前半までわが国経済は市場空前といわれる活況を呈し、世上これを「神武景気」と呼んだ。カメラ業界もこのおかげで、27年、28年の不況から脱却し、カメラの生産、国内出荷、輸出とも大幅な伸びを示した。昭和31年のスチルカメラの生産出荷は、1186千台と100万台の大台を突破し、国内出荷は810千台、輸出は368千台を記録している。当時のカメラの主流をなしていたのは35ミリレンズシャッターカメラで、二眼レフ、スプリングカメラ、35ミリフォーカルプレンカメラがこれに続いていたが、二眼レフは32年をピークに漸減し、スプリングカメラは29年をピークとして、35年には殆ど姿を消す。35ミリフォーカルプレン距離計連動カメラでは、昭和29年のフォトキナで西独ライツ社から「ライカM3」が発表され関係者に強い衝撃を与え、わが国メーカーもこれに対抗する高級機種を発売したが、距離計連動の35ミリフォーカルプレンカメラは昭和34年をピークとして次第に35ミリ一眼レフに置き変わっていく」(24p,Ⅱ 景気変動に揺れる国内カメラ市場 1.「神武景気」から「なべ底景気」へ)

 

この文章を読むと昭和30年頃は国内のカメラ市場は確かに発展しているが、注意点がある。「27年、28年の不況から脱却し…」の点だ。この時二眼レフブームがあるのに「不況」は疑問に思わないだろうか。続いて以下抜粋

 

「昭和25年6月に勃発した朝鮮動乱はわが国経済の局面を一変させ、特需と輸出の急増によりいわゆる「朝鮮動乱ブームを招来した。朝鮮動乱によるカメラ工業への直接的な効果は、国連軍大部隊の日本及び朝鮮への駐留によるカメラ需要であり、次には国内景気の盛り上がりによる内需の増大である。(中略)この頃のカメラ業界を賑わした話題の1つに理研光学工業(現リコー)による二眼レフ、「リコーフレックスⅢ」の発表がある。当時他社の二眼レフカメラが2万円以上であったのに、このカメラは本体5800円、ケース1500円という廉価で、しかもよく写るということで好評を博し、プレミアムが付いて売られるというブームを起こした。その後26年、27年と二眼レフの新製品が続々と現れ、一流メーカーの製品のみならず、いわゆる四畳半メーカーによる粗悪品も生まれ、ある時期にはブランド名の頭文字がアルファベットのAからZまで二眼レフだけで揃う(実際には、J、U、Xの3文字は無かった)といわれるほどであった。この頃は二眼レフだけでなくセミ判、6×6判のスプリングカメラ、16ミリカメラの分野でも数多くの新機種が現われカメラブームを現出する。朝鮮動乱は勃発後1年にして停戦会談が開かれ、欧米諸国の軍拡景気も下火になり、日本カメラの輸出も減少気味になったが、国内のカメラ需要は堅調を維持し、昭和28年頃は二眼レフ、スプリングカメラが中心に活躍した。昭和27年には新しい時代のカメラの誕生をみた。旭光学の「アサヒフレックスⅠ」がそれであり、国産初の35ミリ一眼レフの登場である。(中略)...27、28年当時のカメラメーカーは、光学精機工業会写真機部会のメンバー23社のほか、アウトサイダーが約30社、そのほか部品を買い集めて数人でカメラを組み立てるいわゆる四畳半メーカーといわれる零細企業が30~50社あり、合わせて100社程度のメーカーが乱立していた。28年末になるとカメラの供給過剰傾向が顕著になり、値下げ競争が始まって、まず四畳半メーカーが脱落、29年末にはメーカー数は65社ほどに激減するに至った。カメラメーカーの多くはこの事態を重視し、カメラ工業の発展を図るために独立した工業会を作るべきであるとの合意に達し、光学精機工業会写真機部会を独立させて日本写真機工業会が創立されることになる。」(18p,第二章 戦後カメラ工業の再建 4.朝鮮動乱の勃発とカメラブーム)

 

四畳半メーカーは高度経済成長期に入る前に大半が淘汰され、彼らが生み出したカメラ達は苦難の道を歩み始めていたことが伺える。時代は生き残った中小企業と大手企業での熾烈な争いへと移行していた。

 

サンフレックスもそうしたアウトサイダーその他のメーカーが製造した二眼レフの1つだ。昭和30年だと景気は復活しているものの、既にヤシカやリコーなどが安く多機能な二眼レフを投入していることから市場での立場は余り芳しくない。実際にその年以降でも多くのメーカーが立ちいかなくなって倒産した。

 

こうした時代背景を考えるとサンフレックスと文章を刻んだ組立員の立場は悲壮的だと解釈するのが良いかもしれない。


四畳半やアウトサイダーの存在が居てこの会は生まれたと考えると面白いと思わないだろうかw

 

高度経済成長期が訪れてもその恩恵を受けられない層は居たのだ。彼らの想いや如何に。


⑤へ続く