ウンスは、チェ・ヨンが

そっと一人で外へ出て行ったことに

気づいていた。

 

 

 

チェ・ヨンのあの

筋肉隆々ではないが

滑らかで

 

鍛えられた肉を

必要なだけしか纏っていない

そんな胸が

大好きでたまらない

ウンス。

 

どんどん

どんどん

好きになり

 

好きになりすぎて

 

その肌に

なかなか合わせられない最近に

ウンスは少し苛立っていた。

 

いや、苛立ちを超えて

持ち前の元気を

すっかり失っていた。

 

 

戦いを終え、

ようやく帰ったというのに

そのまま

戦いの時以上に忙しく

 

 

いつも慌てて

申し訳程度に朝方戻り

二人の寝所へと

駆けてくる。

 

今日こそは

そのままここに来てくれるのかと

あまりの嬉しさに

自分の喜ぶ鼓動のオトを隠しきれず

 

 

「もう…落ち着いて」

 

「静かに」

 

「寝てるふり…しなきゃ…」

 

 

そう慌てて

なんとか寝ている振りをしようとする。

 

 

どくん

どくん

 

どくん

どくん

 

 

どんどん高鳴る

胸のオト。

 

 

「ああ…だめ」

 

 

そう思った瞬間。

 

 

 

チェ・ヨンの大きすぎる歩幅の

脚音が

寝所の二歩手前で

止まった。

 

 

いつものように。

 

「ま…た……?」

 

泣きそうになる。

 

「また…な…の……」

 

物音のしない廊下。

確かにそこに

隠しきれない

チェ・ヨンの息遣いがあるのに

あの細く長い脚は

そこに止まったまま。

 

 

「いいから…早く…来て……」

 

 

願うウンス。

 

 

「今日こそ…は…」

 

「お願い…だか…ら……」

 

「来…て……」

 

 

 

チェ・ヨンが今週

自分の邸宅に戻ってこれたのは

この時と二日前のたったの二回。

 

それ以外は夕方

ウンスが王宮から戻るころ

食事だけをともにとるために

使用人のいる

束の間の時間だけ戻るか

 

昼間、医院がいる時

典医寺に顔を見せるくらいで

 

 

寝台はずっと

ウンス一人の

場所に

なっていた。

 

会えるのは

いつも周りに

誰かがいる時だけ。

 

二人切りの時など

どこにもない。

 

今しかないのに。

 

あと三十分もすれば

使用人が起きてくる。

 

たったのそれだけしかないのに…。

 

昔のように

ここまで我慢できない体で

慌ててやってきて

ウンスのことなど考えず

自分の思うがまま

がむしゃらに

抱くようなことを

しなくなった

チェ・ヨン。

 

 

その日もまた。

 

ふと何かを思ったかのように

浴槽へと

今来た道を戻っていく。

 

先ほどまでの

駆けてきた勢いなど

どこにもなく

 

とぼとぼと

歩き戻る

チェ・ヨンの脚音。

 

ウンスは……。

 

布に唇を押し付けて

泣いていた。

 

嗚咽をチェ・ヨンに

聞かれないように。

 

「今…この時しかないのに」

 

「なぜ……」

 

「来てくれないのっ」

 

「また今日も」

 

「朝食を食べて」

 

「戻るだけなの」

 

「それも無言で」

 

「瞳も合わせないまま」

 

 

「なぜ……」

 

 

そう思うと

涙が溢れて止まらず

嗚咽も抑えることなどできず

 

チェ・ヨンが浴槽の扉を

ぱたんと閉める

そのオトがしたのと同時に

 

すごい声で

泣き出した。

 

中庭で

焦った顔色を隠せないテマン。

 

そこにいた

へジョンもミンアンも

一様に困った顔をする。

 

 

ここ最近の二人。

 

何かおかしく

ぎこちなく

 

チェ・ヨンはうなだれ

ユ・ウンスは泣いている。

 

元気のないウンスが

ミソンも心配でならず

あれこれおいしいものを

元気がでるものを

食べさせようと

 

色使いにも気遣って

馳走を作り並べるが

 

あのなんでもおいしそうに

食べては人を魅了してやまない

ウンスが

一口食べては箸を置き

そして

中庭にある

菊の花をただ

見つめるだけに

成り果てていた。

 

 

「いつ以来…私はヨンと

肌を合わせてないんだろう」

 

 

「ヨンは…もしかして…

私の何かが気に食わなくて

嫌いになったのか…な…」

 

「ヨンは…もう…

私をお嫁さんにしたくないのかな…」

 

「本祝言はやっぱりやめて…

山のように来ている

お見合いのための書物の中から

自分に釣り合う人にしようと

している…のか…な…」

 

 

そんなことを考えて

 

「ミョン……」

 

 

つい、そんな言葉を

口にしてしまった。

 

 

奇しくも

チェ・ヨンが目の前に座り

ともに無言で

朝食を食べている時に。

 

 

ぴくりと眉を動かす

チェ・ヨン。

 

平静を装っているが

箸を持つ手は震え

かたんと

椀を机に

おいた。

 

 

「もう時間ですゆえ」

 

「すまぬ」

 

「イムジャ」

 

 

そう言い

邸宅を出て行く。

 

 

振り返るテマン。

 

チェ・ヨンに何かを話している。

 

その後ろ姿を見ながら

涙を頬につぅっと流す

ウンス。

 

投げつけたかった。

そこにあるすべてのものを。

 

天界・ソウルなら

きっとそうしていただろう。

 

だが、ここは高麗。

 

使用人がたくさんいて

自分は仮ではあっても

あの迂達赤隊長に

戻ったばかりの

チェ・ヨンの妻。

 

 

できるわけがなかった。

そんなこと。

 

 

 

自分の頬に流れた涙を

隠すようにぬぐうと

 

「1時間後に出るから」

 

そう、ミソンに言い

ものすごい勢いで

寝所へと戻っていった。

 

 

つっぷす。

寝台に。

 

寝台のシーツが

これ以上もう吸えないほどに

ウンスの涙が広がる。

 

「なんで」

 

「なんでなの」

 

 

「なんでこんな辛い思い」

 

「しなきゃなのっ」

 

 

「私、なんか悪いことした?」

 

「ねえ、教えて」

 

「教えてよっ」

 

「ヨンっ」

 

 

その瞬間

チェ・ヨンの脳裏に

ウンスの自分を呼ぶ声が

ずしんと

響いた。

 

 

自分を呼ぶ

 

「ヨンっ」

 

という叫び声。

 

 

はっと、自分の邸宅の方を振り返る。

 

 

チュホンが驚く。

 

急にチェ・ヨンが

勢いよく躰をよじったせいで

危うくバランスを崩し

落ちそうになるところを

チュホンの阿吽の呼吸で

なんとか回避した。

 

 

止まるチュホン。

 

「戻るか?」

 

聞く。

 

 

「今、だ」

 

「今、戻った方がよいのでは」

 

「今、でなければ」

 

「だめになる」

 

 

そう訴えるチュホン。

後ろについているテマンも

必死にうなづく。

 

 

だが、チェ・ヨンは

うなだれ前を向くと

チュホンに戻らず

進むように指示をした。

 

 

雨がぽつりと

チェ・ヨンの頬に落ちる。

 

黒マントに

点々と

雨の跡がのる。

 

 

「Rain」

 

つぶやくチェ・ヨン。

 

その言葉。

 

ウンスの好きな言葉だった。

 

ウンスが天界でよく

天に手をかざして

言っていた言葉。

 

幻でしか会えなかった時

辛い時にしか会えなかった時

 

でも、触れることが

一切できなかった時。

 

ウンスは天に手をかざし

 

「Rain……」

 

そう

いつも

つぶやいていた。

 

 

「Rain……」

 

オトを真似して

重ねてみる

チェ・ヨン。

 

にこっと笑うウンス。

 

「うまいわね」

 

驚いた。

そんな顔をして。

 

「私、好きなんだ」

 

そうチェ・ヨンに告白する。

 

「Rain……」

 

 

「これ、誰にも言ったことない」

 

「あなただけよ」

 

「なぜなんだろ」

 

「まあ、私の雨好きは

みんな知ってるんだろうけど…」

 

「Rain・・・」

 

「……って言って

こうして手をかざしてるとこは

誰にも見せたことない」

 

「うん」

 

「見せたこと…ない……」

 

 

チェ・ヨンは嬉しくて

ならなかった。

 

この天界には

高麗では考えられないくらいの

人がいて

 

しかも男女が同等に肩を並べ

歩いている。

 

そんな中で

目の前にいる

ウンスが

誰にも見せたことのない姿を

なぜか自分にだけ

見せたと、

 

そう言っている。

 

 

「俺・に・・だ・・・け・・・」

 

チェ・ヨンにとって

史上最高の

たまらない言葉。

 

自分だけが知っている

ユ・ウンス。

 

自分しか知りえない

ユ・ウンス。

 

高麗の男である自分が

天界の男も知らない

ユ・ウンスの心底好きなものを

知っている。

 

二人だけの秘密を

得たようで

チェ・ヨンは

嬉しくてたまらず

思わず

いつもの仏頂面が

崩れてしまった。

 

「あれ・・・」

 

「ヨン・・さん・・・」

 

「笑った?」

 

「もしかして?」

 

「笑った?」

 

 

「笑ってる」

 

「ヨン」

 

「笑った」

 

「笑うと、そんな可愛い顔になるんだ」

 

「えくぼなんてできちゃって」

 

「なにこれ・・・」

 

「ヨン・・最高!」

 

「やればできるんじゃない」

 

「そんな顔」

 

「私大好き」

 

「あなたのその顔」

 

 

チェ・ヨンは自分の方へ

走り寄ってきて

抱きつこうとするウンスを

すんでのところで避けた。

 

今、帰りたくなかったから。

高麗へ。

 

もう少し

味わっていたい。

この感覚を。

 

そう、思ったチェ・ヨンは

触れられぬはずのウンスを

瞬時に避けた。

 

「なんだ」

 

「つまんない」

 

そうふてくされるウンス。

 

でも、笑っている。

 

チェ・ヨンの頬に

まだどうしようもなく

すぐにふっと浮かんでしまう

えくぼがあったから。

 

 

「えくぼのできる男・・好きなんだ」

 

「私・・・」

 

 

チェ・ヨンはもうどうしてよいかわからず

 

 

「イムジャ…」

 

「今宵は出直します」

 

ついに

そう言ってしまった。

 

 

「またすぐに来れるだろう」

 

 

そう思い…

もう自分の笑みをどうしようも

することができず

これ以上ここにいたら

危険だと

そう判断し

つい、そう言ってしまった。

 

「えっ」

 

「今きたばかりなのに」

 

「ねえ、もうちょっ・・・」

 

 

そう言った時には

すでにチェ・ヨンは

消えていた。

 

いつもの

 

 

「では」

 

「さらば」

 

その言葉を残して。

 

 

 

ーーーーそれ以来

 

チェ・ヨンは

 

「Rain」

 

その言葉を

何度

一人で

唱えたか。

 

もはや

その男の

一番大事な

言葉になっていた。

 

「Rain」

 

 

苦しすぎる今。

 

あの戦いに

ウンスと二人で行くことになり

そうした時に

 

まざまざと知ってしまった

 

ヨン・クォンとミョン・ノサム

二人の男の想い。

 

二人の男しか

知りえない

ユ・ウンスとの思い出。

 

ウンスに聞けば

そんなこと

どんなことがあったのか

すべて正直に

教えてくれるだろうに。

 

それがチェ・ヨンには

できなかった。

 

「聞きたくない」

 

「そのような思い出」

 

「俺にはそんな思い出…」

 

「一つもないのだ…」

 

「俺…に…は……」

 

 

戦いへウンスと二人で

向かっている時

二人はいろんなことを

体験し

いろんなことを

話し

 

なんとかそれを

乗り越えたはずだったのに

 

チェ・ヨンには

最後の一歩が

どうしても

踏み出せなかった。

 

 

「なんて小さい男なのだ」

 

「俺は」

 

「何もなかったのだ」

 

「ただ、一緒に時を過ごしていただけなのだ」

 

 

何度も繰り返した

この同じ言葉。

 

だが…………。

 

 

 

自分にはウンスを癒しきれない何かを

あの二人の男は

それぞれに持っていて

 

ここにいなければ

またそれはそれで済むものを

 

この危ない状況の中

 

ウンスよりも

自分を守ろうとしている。

 

 

ウンスを護るのは

チェ・ヨンなのだから。

 

二人が護るべきは

チェ・ヨンなのだと。

 

 

そんな二人の気持ちが

痛いほどわかりすぎて

頭が下がる想いではあったが

逆にその

普通の男には絶対できない

チェ・ヨンにすらできないかもしれない

その強靭な

ぶれることのない

自身を犠牲にしてまでもの

二人の強すぎる想いが

 

チェ・ヨンを

蝕んでいた。

 

 

「どうすれば…」

 

「よい……」

 

「俺は…どうすれば……」

 

 

 

 

 

気づくと、

王宮の前にいた。

 

 

チュホンに問う。

 

 

「なぜ兵舎ではない」

「なぜ、王宮なのだ」

 

「なぜ……」

 

 

テマンが言った。

 

恐る恐る。

 

 

「王様がお呼びです」

 

「兵舎に行く前に一人で

こちらへ来いと」

 

 

チェ・ヨンは

テマンのいうことなど聞かず

迂達赤兵舎へ向かおうと

チュホンに命じたが

 

チュホンは頑なに

そこを動かなかった。

 

チュホンの瞳が

訴える。

 

「行け」

と。

 

「王の元へ」

と。

 

 

チェ・ヨンは何度も争ったが

チュホンに根負けして

 

いつしかそこにいた

チュンソクにも促され

 

渋々

王宮の門を

潜っていった。

 

 

「もしかしたら……」

 

 

一縷の望みを

微かに

 

抱きながら………。

 

 

どうすれば……