何も予定のない休日がつくづく嬉しい。何かやりたいことがあるわけでない、暇を持て余すことが分かりきっているのに、この嬉しさは何だろう。よほど日々の責任・プレッシャーから逃れたいという思いが強いのか。大した責任も負っていないくせに。それとも、自分の能力の低さを、必要とされていなさを、直視しないで済む安心感なのかも。特にこの学校へ転勤してきて担任や役付きから降りて以降、自分がいてもいなくてもどっちでもよい存在になったようで、引け目を感じ続けているのも事実。

 

特に周囲に敬われたいとか存在感を見せつけたいとかいう欲望は感じていないのだが、周囲との会話に入っていけなくてもまるで平気だが、どこかにまだ「軽んじられたくない」「厄介者のように扱われたくない」という見栄は残っているのかも知れない。家にいて快適なのは、A子が俺の家事に大いに感謝して尊重してくれるから、ともいえる。俺自身、家庭で自分の果たしている役割を「無くてはならないもの」と実感できているし、恩着せがましくしているつもりはないが、子どもたちも同感だろうということが態度で伝わってくる。

 

以前は学校でクラス経営や授業においてそういう手ごたえを感じていた時期もあった。今は担任も降り、授業も殊更に力を入れず淡々と進める(これは手抜きというよりも圧を嫌う今どきの生徒達に合わせた結果ともいえる)形になって、自然体になれているんだろうなとも思う。でもそれは決してかつて自分が理想としていた教員ではなく、どちらかというと若いころは見下していた老いぼれ教員の姿であろう。そういう自覚があるから仮想の周囲の目=それはすなわち自己評価の目に耐えられないのかも知れない。

 

朝のうちに出発してWアパートへ向かうY・Iを最寄り駅まで送り、A子が昨日刈った庭草を裏山へ片付けて駐車場を綺麗にし、今日の仕事はおしまい。A子はママ友とコメダ珈琲でブランチに行っているので、一人気ままに2階でごろ寝テレビ。溜まった録画番組を一気に消化。クロ現で公務員の減少と要求される任務の煩雑化に対応するため、住民の自治会と協力して市街地空間の維持管理を賄っている取り組みが紹介される。それってうちの近辺ではとっくに行われている地区清掃じゃん。でもこれからは自治会すら成り立たない高齢地域も出てくるのだろう。

 

A子が昼過ぎに帰ってきて、夕方から久々に一緒にウォーキング。暑いので短縮1時間コースで実施。でもいい汗をかいて、今晩はぐっすり眠れそう。晩飯は子どもたちもいないので手抜きでお好み焼き、A子に買ってきてもらった巻き寿司、キャベツとソーセージのスープ。足りないかと思ったが充分な量だった。食後、二人でYのパソコンで「地獄に落ちるわよ」の続き、第4・5回を視聴。自分が地獄に落ちる辛酸を舐めたからこそ、人の行く末が見えるようになったのかもね。それにしてもネトフリは番組が充実していて、テレビ離れが進むわけだ。