Yの誕生に合わせて始めたこの日記、Yとのふれあいがこの18年の生活の中心だったことを教えてくれる。そのYがついに我々の元を離れて生活する日がやって来た。いつかは来ることだと分かっていたが、現実を前に激しく動揺している自分を感じる。

 

5時起きでお袋の世話を済ませ、目玉焼きとポテサラ・味噌汁残りで朝食用意。下二人も起こし、すっかり葉っぱだけになった庭先の河津桜の前で記念写真。明日の入寮まで付き添いのA子とYを乗せて駅へ向かう。我ながら淡々と受け止められていると思っていたが、次第に動悸が激しくなってくる。駅のロータリーについて後ろのトランクからスーツケースを運び出そうとすると、Yが慌てて「私がやる!」と自分で引っ張り上げる。(これからはパパに頼らず自分でやらなきゃいけないんだもんね)という心の声が聞こえた気分。荷物を手にしたYと目が合う。最後の俺の言葉を待ってくれているのか。

 

「Y、どこへ行っても俺たちはお前の最大の味方だからな」声が震え始める。「もしどうしても耐えられないと思ったら、大学でも何でも放り投げて」涙声になるのを止められない。「いつでも帰って来いよ」もう嗚咽交じりだ。Yは困ったように「うん、うん、わかったよ。ありがとう」とほほ笑んで、一歩離れて見守ってくれていたA子と共に改札口へ歩いて行った。姿が見えなくなるまでロータリーに佇んで目で追うが、奴はもう振り返らない。俺の未練を断ち切ってくれているのだ。子離れのできないダメな父親でごめんよ。

 

そのまま泣きながら車を走らせ、出勤。Yとの18年が頭を駆け巡る。きっと奴が結婚するといっても、こんなに悲しくはないだろう。人のものになる云々はどうでもいい、というかYを俺の所有物だと思ったことなどない。ただYと一緒に暮らせなくなることがこんなに悲しいとは、自分でも意外だった。本当に、本当に、俺たちの子であってくれてありがとう。これまでの18年がいかに幸せだったか、初めてその価値を実感したよ。なぜこんな日記をいつまでもだらだら書き続けていたのか、無意識のうちにその幸せを何か形に残しておきたかったのかも知れない。

 

出勤後、魂の抜けたような気分で仕事。週明け会議のレジュメ作りと、ロッカー内に残った生徒私物の整理。幸い放置してあった3人とも連絡がついてその日のうちに姿を見せ、荷物を引き取っていってくれた。これでもうやることもないのだが、今日は管理当番なので年休早退はできない。机周りの溜まった書類を整理し、懸案の芸術鑑賞会をどういう形で開くか、あるいは断念するか、事務や生徒課等各方面と相談。定時前に校舎見回りを済ませて帰宅。

 

お袋のオムツを換え、下二人とテレビを見ながらの夕食。正直作る気になれず、冷凍パスタと納豆巻き、総菜屋のクリームコロッケ。手抜きだが二人とも美味しいと完食。テレビは以前見た関ジャニクロニクル、こないだ放映の水ダウ。Yがいないと語り合う声も半分以下になるようだ。WとIは嘆く様子など微塵も見せず、今日は一日子ども部屋の引っ越しに精を出していたという。WがYの部屋へ、IがWの部屋へそれぞれ移動するとのことで、Yの私物は既にどんどん片づけられ外へ運び出されている。何というか…ドライだねえ。