善悪の区別と、全てを受け止める愛・優しさ・包容力は相反するものではないと思います。本来、キリスト教でメシヤを待ち望む理由も「罪の贖罪(しょくざい)」でした。メシヤは人間の罪や苦しみを知った上で、神の権限を持って贖罪することを許された方です。

 

『主人の食卓から落ちたパンくずは犬も食べる』のですが、大切なのは『主人の食卓』に座れる立場ではないとしても『パンくずでも食べる』という姿勢です。人間として『主人の食卓』に座れる人がいるでしょうか ? そう思っている人がいれば傲慢な人です。『パンくずでも食べたい』という謙遜かつ求める姿勢、そして何よりも『パンくず』の価値を知っている、それがイエス様をも感嘆させた人間の真の姿なのではないでしょうか。

 

皆が同じではなく、背負う十字架も違います。ただひとつ同じなのは「父なる神の愛」です。そのために「真の息子」を送ってくださいました。神の愛は受けたいのに、目にも見える「真の息子」は受け入れられない・・多分、『パンくず』の価値がわからないのだと思います。ただの『パンくず』にしか見えないのだと思います。

 

 

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