* パイオニアカフェの記事 「神山会長を称えて」
神山会長は聖和される直前まで、真の家庭と統一家が再び和合することを願われ、祈祷の精誠を捧げられたという。
また、激しい痛みと闘いながら、地上での最後の歩みを整理する数日間においても、自分のために準備されつつある聖和式のプログラムを見ながら、聖和式の規模や格式よりも、自分の聖和式にどちらの食口であったとしても訪ねてきたら、お互いに会話し、和解と和合の場となれば本当に嬉しいことだと打ち明けられたという。
ある元老は神山会長の聖和の知らせを聞いて「このような方が長生きして日本の食口を守り、真の家庭の強い囲いとなってくれなければならないのに…。天も本当に無情だ」と言いながらも「ダンベリーを共に過ごした神山会長が逝かれたで霊界のお父様は寂しくはないだろう」と語った。
そうだ。神山会長が誰なのか。お父様が神山だけを信じ、聖和を目前にして
「日本の食口を頼む」 というみ言葉を麗水で神山会長に残されたではないか。
神山会長は、このお父様の最後のみ言葉を一日も忘れることなく、休むことなく実践することによって、お父様の期待に応えようとされた。一度、癌で倒れたものの、健康を少し回復すると再び第一線で歩まれた。膵臓癌末期の診断を受ける直前まで、彼は日本の名古屋に拠点を置き、一日に数百キロの長距離を車で移動することも拒まなかった。数人の食口に会うために、彼は喜んで食口がいる所まで走って行った。そのようにでもしいない限り、お父様に対する心情の負債をすべて返済することができないとでも思われたのかもしれない。彼は狂ったようにお父様を愛した、だから彼は、地上での最後のその日まで、お父様のみ言葉を忘れなかった。終焉を迎えるためにアメリカに戻り、地獄のような末期癌の闘病生活をしながら、一日でも長く生きようとはされなかった。それどころか、一日に2~3回、最も強い鎮痛剤の注射をうちながら訪問客を迎え、彼らのためにお父様のみ言葉を伝え、さらにはリビングにホワイトボードを設置して直接講義までされた。苦しそうな表情をしたりやつれた身なりをすれば、食口が胸を痛めたり申し訳ないと思うのではないかと、いつもきっちりした姿で訪問客を迎え、健康な時と変わりなく冗談を言い合った。
日本の医者から「膵臓癌末期だから長くて3ヶ月である」と告知されたが、このような神山会長の最後の闘魂に癌細胞もしばらく活動を停止したのか、2倍の期間を歩まれた。私たちはその間、お父様の偉大な弟子の一人がどのように自身の人生を美しく終えるかを目撃することができた。
「神山ガンバレ!」
お父様が最後に彼に語られたみ言葉だという。
彼は、今はもう霊界に逝かれたが、この合言葉を持って地上にいた時と変わらない熱い思いで歩まれることだろう。