猛烈にストレスを感じてもやらなければ

猛烈にストレスを感じてもやらなければ

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ある種の無垢性は永遠に失われ、その後で発見された実際の乳房は、決して完全なそれではない。対象(a )とは、何らかの対象を構成するこうしたプロセスの残存物であり、象徴化の統制を逃れる屑である。それは何か他のものが存在するということ、おそらく失われた何か、おそらくいまだ発見されていない何かが存在するということを想起させるものである。すなわち対象(a )とは、失われた仮説的な母子一体の残余=想起させるものなのだ。フロイト的なもの、ラカン的対象の他の諸側面もまた、同様の仕方でフロイトの仕事に由来する。ものは、否定から引用した上記の文章のうちにすでに出てきているが、ラカンはこれに関してセミネールで、フロイトの科学的心理学草稿にもとづいて広範に論じている。科学的心理学草稿でフロイトは、ニューロンという観点から、ものを不変のものとして、たとえば幼児の乳房に関する様々な知覚のうちの不変のものとして描きだしている。それは知覚抜合体のなかの恒常的な部分と対応する。可変的なニューロンは、その他のニューロンと連合し、つながりを確立する。


精神分析を通じて自分自身が経験した数々の効果や変化が、精神分析家の実践のベースを構成しているのである。重要なのは、この精神分析をとりまく環境が、フロイトの時代と比べて現代では大きく変わってしまったということである。精神分析の周囲には、いまやあらゆるタイプの精神療法が林立していて、精神分析はそのなかで自らの足場を確保することを余儀なくされている。アメリカでは、すでに一九六○年代に、「ニュー・エイジ」と呼ばれる多種多様な「セラピー」の波が精神分析を呑み込むような勢いで湧き起こってきたし、フランスでも、一九九○年代から続く「プシー現象」(精神療法ブーム)は衰える様子を見せない。一九八八年に我が国ではじまった「臨床心理士」の認定制度は、こうした世界的な潮流とまさに連動している。この制度の導入によって、日本における精神療法は、さすがにブームとまではいかないにせよ、やはり以前よりはるかにポピュラーになった。そしてその需要は、今後もますます伸びてゆくにちがいない。私たちがこれまで注目してきた現象、すなわち、私的領域の公開や内面の露出といった現象はいうまでもなく心理学の大衆化と厳密にパラレルである。