「補完 皮質」 |  ◎涼のどぶろぐ◎←つながり日記←

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風景というか心象というか、
好きなページを開き、
ゆっくりたどって、味わうような
掌短編みたいな日記。

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手にした感想文を読むと一枚一枚に喫茶店の息づかいを感じる。

飲んだコーヒーカップや
食べ終わったチキンソテーの皿をどけて、あるいは注文した巨大パフェを目の前にして、人形劇の終演後に書いていただいたアンケートの紙だ。


2日目の停電事件の回の
「アクシデントの対応の早さにみなさんの技術の高さがわかった」は単純に嬉しい。

フラリと入っていて人形劇と遭遇してしまった方も、「まさか人形劇をみるとは」と

一回目をみて「楽しみに来ました」とか
「やっと見れました~」など

「ラショウさんの楽曲は耳に残りますね」なんせ生演奏の人形劇だ


小さな活動ではあるが一枚一枚ほんとにありがたく大事だ。



喫茶店で演(や)る人形劇ってなんだろうと思う。



イタチョコ浄瑠璃の場合、人形隠しがなく役者が見えている状態で演ずるので、後ろで操作する表情が見えている。
まして舞台を飾るセットもない。
喫茶店の壁だ。

だから最初、人形を見ていいのか役者をみていいのか迷う。

僕らとしてはどちらでもいいんだという認識だ。


「見えているものは、見えている」からだ。
「見えているものを見ない」とするのはリアルではない。


文楽の場合、人形シテ(操作する人)は観客から見えているが「無」である。しかしイタチョコ浄瑠璃 は曖昧だ。
役者は喋るし表情がある
人形の手は役者の手だ。


しかし
物語を感じていると逆転がおこる。巨大な木の頂上や乾いた荒野、うっそうとした森、大きな湖、人形の涙や笑い顔が、立ちあらわれはじめる。


楽曲と物語が終わると
また、ふだんの喫茶店にもどる。

「アルものがナクなる」


この劇場でもない「喫茶店」にあらわれた空間に「ナイものがアルものに見え」たとき

イタチョコ浄瑠璃 」という人形劇が僕には
面白く、とても楽しく、贅沢な愉しみだと感じる。


いった何が起きているのだろうか。
脳内に「見えないものを見よう」と補完する皮質があるのだ。


「ナイものをアルように見る」


その性質に

人間っぽさの魅力があるのかもしれない。



<つながり日記>

「人形劇のリアル」




リョーです(>_<)/
訪問アリガトウゴザイマSU~
観劇来てイタだいた方々差し入れ大変感謝々々!
イタチョコ浄瑠璃コレカラモ応援ノホドヲ
感m(_ _)m謝