手にした感想文を読むと一枚一枚に喫茶店の息づかいを感じる。
飲んだコーヒーカップや
食べ終わったチキンソテーの皿をどけて、あるいは注文した巨大パフェを目の前にして、人形劇の終演後に書いていただいたアンケートの紙だ。
2日目の停電事件の回の
「アクシデントの対応の早さにみなさんの技術の高さがわかった」は単純に嬉しい。
フラリと入っていて人形劇と遭遇してしまった方も、「まさか人形劇をみるとは」と
一回目をみて「楽しみに来ました」とか
「やっと見れました~」など
「ラショウさんの楽曲は耳に残りますね」なんせ生演奏の人形劇だ
。
小さな活動ではあるが一枚一枚ほんとにありがたく大事だ。
喫茶店で演(や)る人形劇ってなんだろうと思う。
イタチョコ浄瑠璃の場合、人形隠しがなく役者が見えている状態で演ずるので、後ろで操作する表情が見えている。
まして舞台を飾るセットもない。
喫茶店の壁だ。
だから最初、人形を見ていいのか役者をみていいのか迷う。
僕らとしてはどちらでもいいんだという認識だ。
「見えているものは、見えている」からだ。
「見えているものを見ない」とするのはリアルではない。
文楽の場合、人形シテ(操作する人)は観客から見えているが「無」である。しかしイタチョコ浄瑠璃
は曖昧だ。
役者は喋るし表情がある
人形の手は役者の手だ。
しかし
物語を感じていると逆転がおこる。巨大な木の頂上や乾いた荒野、うっそうとした森、大きな湖、人形の涙や笑い顔が、立ちあらわれはじめる。
楽曲と物語が終わると
また、ふだんの喫茶店にもどる。
「アルものがナクなる」
この劇場でもない「喫茶店」にあらわれた空間に「ナイものがアルものに見え」たとき
「イタチョコ浄瑠璃
」という人形劇が僕には
面白く、とても楽しく、贅沢な愉しみだと感じる。
いった何が起きているのだろうか。
脳内に「見えないものを見よう」と補完する皮質があるのだ。
「ナイものをアルように見る」
その性質に
人間っぽさの魅力があるのかもしれない。
<つながり日記>
「人形劇のリアル」
リョーです(>_<)/
訪問アリガトウゴザイマSU~
観劇来てイタだいた方々差し入れ大変感謝々々!
イタチョコ浄瑠璃コレカラモ応援ノホドヲ
感m(_ _)m謝
