人の風習で四十九日法要っていうのがあってね。
もう食べたり飲んだりしなくなったお前にご飯と水を供えるのも、そのタイミングで辞めようと思うんだ。面倒になった訳でも忘れたい訳でもないよ。
ただ、そろそろそうしたほうがいい気がしたから。
お前の事は「むぅ」とか「むぅにゃあ」とか「むむむ」って呼んでたから、自分の名前が「なかむら」だって分かってなかったよね。猫に付けるにはちょっと変な名前だったんだけど、俺の周りでは多くの人たちがお前の名前を憶えて口にしてくれたんだよ。
出会ったのは、2007年10月07日。
夕方に駅へ向かう途中、住宅地の細道で『ビー!ビー!ビー!』って音が聴こえて何処かの家でガス漏れ検知器が鳴ってるのかと思ったら、片手に乗るサイズのお前が足元で鳴いていたね。通りかかったご近所さんらしいおばさんがお前を拾い上げて「可愛いねぇ。ヒゲ、これライターでやられたんだね。可哀想に」って言って去っていった。お前のヒゲは火を着けてチリチリにされた様に縮んでた。俺は用があったから一旦その場を離れて、何時間かして駅から戻ったらお前はまだ同じ場所にいた。寒いから一晩だけ一緒に過ごすつもりで連れて帰ったんだ。
なのに、6499日。
17年9ヶ月16日も一緒にいられたね。お前、人間なら88歳だってさ。

最初は他に飼ってくれる人を探して、しばらくして立候補もあった。でもそれまでに思い入れが湧いてしまって、動物を飼えない賃貸物件だったのにまだお前と一緒にいたくなってた。その時点では確固たる理由はなく感情的に何となくそうしてしまっただけで、本当に手放さない覚悟をしたのは1年くらい先になってからだった。
洗濯物を干そうとした時にお前は外に飛び出して、近所の野良猫との子どもが出来て3匹(わかむら・たかむら・きたの)を産んだ。流石に4匹とも飼う事は出来なくて子どもの里親を探した。
見付かるまでの間、お前はしっかり母親だったね。あんなに小さい時に俺が拾ってきてずっと部屋の中で過ごしてたのに、誰に教わるでもなく母性を見せるお前に感心させられた。3匹を舐めてやって、寝やすい様に寄り掛からせてやって、里親候補が子猫たちを手に乗せると心配しながら周りをうろうろして「降ろしてあげて」と言いたそうに二本足で立って前足で里親候補の手にタッチする姿に、子猫たちよりもお前に対しての愛しさを感じた。子どもたちと一緒にいさせてはやれないけど、お前だけは自分が今後どんな生活になろうと最後まで面倒を見ていこうって決めたよ。
なのに、途中からお前が俺の面倒を見てくれてるみたいになってきた。
帰宅した人間に猫が擦り寄ってくるのは留守が寂しかったからじゃなく、人間の事が「狩りの下手なデカい猫」に見えてて『また何も獲物取れないで帰ってきたのか!外で私の知らない匂いまで付けてきて!私の体を摺り寄せて上書きするよ!』って意味らしいという話を知って、俺としては「お母さんじゃん」って認識になった。
有休を取った平日だったり、普段鳴るアラームを鳴らさないまま俺が起きない朝には、お前はロフトまで登ってきて顔の脇で何度も『なー』って呼び続けた。次の分が常時供給されるエサ入れを使ってたからご飯や水が欲しくて呼んでる訳じゃないし、土日祝だったり最初から休みの日には呼びに来なかった。そして俺が起きたら自分のお気に入りの窓際の風通しが良い場所に戻ってお前はまた寝る。完全に「お母さんじゃん」って認識だった。
猫は10歳頃から老化が始まるらしくて、2018年頃からお前にもその時期が来たね。
寝てる時間が長くなって物音がしても起きないし、起きても動きたがらないし、内臓が悪くなったのか体臭が出る様になってきて、お前が俺の年齢を越えて老いていってしまうのが怖かったよ。お前と一緒にいられる様に、猫が飼える家に引っ越して、ロフトへの昇り降りがしやすい様に本棚なんかの家具を階段状に配置して、前の家よりもお前の為の居場所を意識しながら生活してたし、いなくなった後の事なんて想像する機会もなかった。
そこからコロナになって、在宅勤務で一緒にいる時間が増えて、前より仲良くなれた。全く引っ搔かれなくなって噛まれなくなってお腹も撫でさせてくれた。しかも何故か老いの症状がなくなってお前は元気になった。とはいえ、猫の平均寿命は15歳くらい。
帰り道、今日の残務や明日の予定を考えながら駅から家まで歩く。国道を越えた辺り、家から3つ離れた信号を渡る頃に「あ、むぅいるんだった。早く帰りたい」って思うのがルーティンになってたんだよ。それが、15歳を過ぎてからは「ちゃんと元気で待ってるかな。もしかしたら今日がその日かもしれない…」とも考える様になってた。毎日。本当に毎日それを思って、玄関を開けるまでに部屋の中から『なー』って鳴き声が聞こえると安心したんだよ。
2025年7月22日は、普段通りの朝だった。
お前に「おはにゃ」って言って、お風呂に入って、出てきて髪を乾かす為に自分の定位置の座布団に座ろうとしたらお前が居座ってて、「いていいから少し分けてよ」って言ったら『なー』って返してきて、撫でたらすぐにゴロゴロ言ってきた。しばらく撫でて、お前はドライヤーの音が好きじゃなかったから、お気に入りの窓際に移動していった。出掛ける準備を終えて部屋のドアを開けながら振り返って「むぅ、お留守番しててね。いてくるにゃ」って言ったら、窓際に座ったままじっと俺の顔を見てきた。いつも通りだった。
でも夜に帰ってきてすぐ察したんだ。家の敷地に入っても鳴き声が聞こえない。この時点で小さく覚悟した。鍵を開けようと手元を準備する間にも聞こえない。更に覚悟の強さが増した。玄関を開ける。聞こえない。曇りガラスになった部屋のドア前を往復する影もない。
覚悟が出来てたから、横たわったお前を見てまず「今日か…。ありがとう」って言ってやれたんだよ。今日まで長生きしてくれてありがとうって本当に心の底から思えたから。自分一人で悲しむよりも、撫でながらお前を労わってやりたかったから。
そしたらさ、思い至るものが多すぎて処理し切れなくなって、やっぱり泣いてしまって、それから今までも何度も泣いてしまって、心配かけてたらごめん。ただ、そろそろだから。
お前、この日を選んでくれたんだよね?
前後2週間くらい空き日がない中、この翌日だけが何の予定もなかった。これまでの思い返しやこれからしなければいけない事を考える一晩を経て、とても眠れはしなかったけどお前をちゃんと送る為に少しでも落ち着こうと横になって、撫でて話し掛けながら最後の1日をゆっくり過ごしてからの火葬になった。
猫は心筋症で突然死する事が多くて、老いると心臓が弱ってリスクが高まるんだってね。
多分お前もそうだったんだね。口からほんの少しだけ泡を吹いた様子があった。あの日の朝までは病気の症状らしいものはなかったし、他には食べ物を吐いた跡もうんちも何も残ってなかった。むしろそれまで毎日何かしらが残ってたのに。猫は綺麗なトイレじゃないと中に入らず別の場所にうんちをして、毛ずくろいで毛玉が胃に溜まって吐きやすくなる。お前もそうだったから、俺は帰宅したらまずそれを片付けるのを何年も続けてきた。なのに、あの日は残されてなかった。まるで最後だと分かっていて、片付けさせる手間を作らなかったかの様に。代わりに、それまで一度もなかったトイレ以外でのおしっこの粗相があった。老いて認知症になった猫に多い行動。
『ちょっと頑張って長生きしたけど私そろそろボケちゃうから、あんたに面倒掛ける前に逝くね』って言われた気がしたよ。
老いの症状がなくなった時、一つだけ残ったのが鳴き声の変化だった。
元々サザエさんのタマに似た高めの声だったのがしゃがれた声になって、俺は「前のほうが可愛かったかな」ってちょっと申し訳ない感想を持ちながら、それも老いた猫の症状なんだろうと考えてた。お前が逝った後に改めて調べてみたら、鳴き声が変わるのは死期が近い猫の特徴だって知ったよ。お前、その声になったのはコロナが来た頃だったじゃないか。在宅続きの俺を一人にしてしまわない様に、一度は老いの症状が多く出ていたのにもう少し側にいようとしてくれて、5年以上も生きてくれたのか。
10歳の頃も相当調べたのにその時は声の事には行き着かなかった。知ってたらこの5年をもっと不安になりながら過ごしていただろうから、知らずにいたのは良かったのかもしれない。
俺は本当のお母さんと一緒にいられたのも14年ちょっとだったから、お前のほうが長いんだよ。
夏は一緒の布団で寝てくれなくなるのに、前日は顔の横に来てくれてお前を撫でながら寝られた。俺のお母さんも他界する前日に「今夜は布団を隣に敷いて寝て欲しい」って言ってきたんだ。
四十九日で区切りにするつもりではあるんだけど、夏が終わって涼しくなってきたら、きっとお前が寄り添って一緒に寝てくれたのを思い出す。また少し泣くだろうけど、後悔じゃなくて一人で寝るのにまだちょっと慣れないだけだから、心配しないで大丈夫。
お前の名前は「なかむら」だよ。
側に居た人が「可愛い」って言い続けて、天国で犬や猫が自分の名前を「可愛い」だと勘違いしてるって話があるし、俺が一番呼んでたのは「むぅ」だから、お前は自分の名前は「むぅ」だと思ってるかもしれないね。それでもいいよ。
俺はお前には可愛いって言わなかったね。疎通してるって感じられる瞬間がたくさんあったから、伝えるのが恥ずかしくて言えなかった。それでもずっと思ってたよ。可愛い、大好き。
お前ほどじゃないけど俺も老いたからさ、この先を考えるといつまで自分の心身が万全でいられるか分からなくなってきてる。もう犬や猫みたいに長く生きる動物を不用意に飼ってしまう訳にはいかない。こんなに長く近く一緒に過ごせたのはお前が最後だったんだろうし、それがお前で良かった。
俺の人生の中で好きな猫ランキング1位を越えるやつはお前以外もう出て来ないから、むぅが殿堂入りだよ。

ご飯や砂を買わなくなったから行かなくなった店があるよ。重いのを両手で抱えながら家まで帰るのは大変だったけど、お前の為だから続けられたよ。
吐いた物もうんちも残ってないから帰ってきて部屋の掃除をしないし、頻繁にゴミを出さなくなった。衛生面を前ほど気にしてないから逆に不衛生になってるかもしれなくて、これで体調を崩すと昔の人は祟りや呪いって捉えたんだろうね。
お前を一人きりで留守番させないで済むから、もう家に毎日帰らず何処かに泊まったり朝帰りをしてもいいんだけど、しばらくしないでいたからそういう事をしたい気持ちはなくなっちゃったかな。
部屋に入る時にお前にぶつけない様にゆっくりドアを開けなくてもいい。お前が足元にいるのを気にして蹴らない様に歩かなくてもいい。お前の通り道になりそうな場所に物を置いてもいい。お前が口にしたらいけないものを部屋に置いてもいい。部屋を出る時にお前が逃げない様にドアの開け方を気にしなくてもいい。お前の尻尾を挟まない様に冷蔵庫の扉の閉め方を気にしなくてもいい。
しなくて良くなった事や出来る様になった事があるっていうのは、自由になったって事なのにさ、持て余してるんだよ。お前の為にしてやれる事がなくなっちゃったから。
お前は食いしん坊じゃなかったし、玩具にも興味がなかったし、猫なのに高い場所から着地するのが得意じゃなくて、段差を登ろうとして足を踏み外したりした。お前が大人になってから知ったお前の好物はお湯だったね。冬に冷たい水をあげたらお腹を壊しそうだから試しにお湯をあげたら、ちょっと笑っちゃうくらいめちゃめちゃ飲んだね。猫舌じゃねーのかよって思ったし、お前の好きなものが分かって嬉しかったよ。
寝ながらうなされてるお前が可哀想で何度か起こした事があったね。今はどんな夢を見てるんだろう。楽しい夢を見ていて欲しいよ。お前にとっては何が楽しかったんだろう。その夢の中に俺もいるといいな。
お前が部屋を飛び出したのは子どもを作った時を含めて2回あって、2回目の事を俺は今になって何度も思い返してるよ。
「むぅー?」って呼びながら探しに行ったら、不安そうに『なー』って返事が聞こえてきて、お前はアパートに立て掛けられた脚立の一番上から降りられなくなってた。俺が迎えに行った時、安心してくれたのかな。全然暴れなかった。
あの時お前がもっと遠くに行ってしまっていたら、迎えに行った時に抱かれてくれずに逃げてしまっていたら、こんなに長くは一緒にいられなかったのかもしれないね。
今のお前も高いところから俺を見てくれているのかな。だとしたら、ごめんね。今回はすぐには迎えに行ってやれないんだ。
気が合わない人や嫌いな人も勿論いるけど、その何倍も何十倍も今の俺には好きな人たちがたくさんいて、まだ一緒にやりたい事がいっぱいあるから。別れもあるだろうけど、出会いもまだまだあるから。全部やり切って俺もお前くらい生きてから行くつもりでいるから、ちょっと待ってて。文句が言いたそうな『なー』を何度も聞かされたし、遅いって言われそうだけど。
忘れない。それまで絶対お前を忘れないから、景色を見ながら待ってて。お前が窓際から空を見るのが好きだったって俺は知ってるよ。
お前の事は忘れない。それでも新しい日々が始まってる。
俺が生きる限り、これからの毎日が俺の生き方に上書きされていく。真っ先に頭に浮かべて考える物は、通り過ぎた物よりも目の前にある物だし、変わっていくし、思い出す機会が減るほうが当然。今のところ毎日お前を思い返して、もう泣かなくなったと思ったのにまだ泣くよ。でもこれも通り過ぎていく。
ここから更に17年9ヶ月16日が過ぎた時にはどうなっているか、楽しみでもあるんだよ。お前に胸を張れる時間を過ごして、いつか報告してやりたいんだ。その時はまた気が済むまで撫でさせてもらうから、ゴロゴロ言いながら気持ち良さそうな顔をしてくれたらいいな。
もう既に変わってしまった事、今では言わなくなった言葉を最後にもう一度お前に告げて締めにするよ。
「むぅ、おにゃすみ」
最後に録っていた動画
https://twitcasting.tv/tk4mtmt/movie/806450244