萩尾望都さんの漫画は、めちゃくちゃ面白いんですけど、古典やおとぎ話のような「分からなさ」があるな、とずっと思ってました。

その理由が、氷解しました。

この本のお陰です。

少年時代に萩尾作品に魅せられたNHKのプロデューサーが、その魅力の秘密を分析する「100分de萩尾望都」という番組を2021年11月に制作、その時のインタビューや出演者の解説が、1冊にまとまっています。

 

中でも「トーマの心臓」について解説された小谷真理さんの分析。

魅力的だけど分かりにくいこの作品に、なぜ読者が魅了されるのか?見事に解き明かしてくれています。

 

「トーマの心臓」

 

舞台はドイツの全寮制男子寄宿学校、ギムナジウム。

14歳の少年トーマが、陸橋から転落自死するシーンから始まる。

トーマは一片の詩を残していた。

 

「ユリスモールへ さいごに 

これがぼくの愛

ぼくの心臓の音

きみにはわかっているはず」

 

トーマはユーリ(=ユリスモール)という同学年の少年が好きだったが、ユーリは心を開かなかった。

ユーリは、上級生による性的な虐めに遭い、それに屈したことで自己嫌悪から脱せず、人を愛する気持ちになれなかった。

ユーリは、トーマの死も「押し付けの愛」に感じていた。

 

そこに、エーリクというトーマそっくりな転校生がやってきた。

エーリクは素直で生きるエネルギーの塊のような少年。

やがてエーリクも、ユーリを好きになっていく。

 

自分を無邪気に慕うエーリクを苦々しく思うユーリは、「自分には天国に行く翼がない」と自虐する。

エーリクは「僕の翼じゃだめ?ぼく片羽きみにあげる」とユーリに伝える。

それを聞いたユーリは、トーマの自死の意味を悟る。

 

トーマは自分の愛を押し付けるために死んだのではなく、ユーリの罪の意識の身代わりになるために死んだのだと。

トーマの心臓=トーマの愛とは、「エロス=対象の価値を追求する自分本位の愛」ではなく、「アガペー=徹底的に他者本位の愛」だった。

それに気づいたユーリは、神学校に転校していく。

 

…どうでしょうか?

なかなか難解ですよね。

小谷さんは、「トーマの心臓は、一種のSFとして読めるのではないか」と切り込みます。

女の子(異性)がいない、少年だけに閉ざされた、キリスト教的ルールに支配された異世界。

ここが目から鱗でした。

 

なぜ異性がいない世界なの?

「アガペー=他者本位の愛」の在り様を描くために、「エロスに支配される前の人間」を主要人物にする為、この舞台装置が必要だったのですね。


トーマはエロスに目覚める前の存在として描かれています。

冒頭、トーマのモノローグ

「ぼくは成熟しただけの子どもだ ということはじゅうぶんわかっているし

だから この少年の時としての愛が

性もなく正体もわからないなにか透明なものに向かって投げだされるのだということも知っている」

 

「性もなく正体もわからないなにか透明なもの」として、アガペーを描いています。


キリスト教の最大の罪=自死という罪を自ら背負うことによって、ユーリの罪の意識を救おうとしたトーマ。

 

お話としての説得力を持たせるため、ユーリとトーマの人物設定やギムナジウムという舞台設定が必要不可欠だったことが分かります。

 

また、このムックには、「萩尾望都スペシャルインタビュー」というのが載っていて、なんと萩尾先生自ら、気前よく「トーマの心臓」の構想を語ってくれています。

 

「悲しみの天使」という少年同士の恋愛を描いた映画をみて、出てくる少年たちがとてもきれいで可愛かった。

その映画の中で誤解したまま自殺してしまう少年に感情移入してしまって、その子へのオマージュとして物語を構想した。

 

少女雑誌に載せるので、まず、少女のキャラクターでセリフを起こしてみた。

すると、少女だと、「こうしなくてはいけない」という枷を自ら作ってしまい、キャラクターが自由に動かない。

そこで男の子でキャラクターを作ってみたら、自由に動かせるので、なんて描きやすいんだろうと思った。

 

また、萩尾先生は、「トーマの心臓」を少年同士の物語を描いているとは思っていないそうです。

ピュアな人間同士の物語として描いたとのこと。

女の子のキャラクターだと、ここまで行動できない、表現したい物語が描きづらい、ということだったそうです。

 

つまり、萩尾先生の中で「トーマの心臓」は、女の子はもちろん、男の子という性をも取っ払って作った世界線だったのですね。

 

 

ただ、私は、「トーマの心臓」が魅力的なのは、無性の舞台装置でアガペーを描いたからではなく、あくまで「エロスとアガペーのせめぎ合い」を描いたからなんじゃないかな?と思うんですよ。

 

エロスもアガペーも、両方ある前提でお話が進んでいくように読めるんです。

 

トーマやエーリクは見るからに少年として描かれますが、ユーリの方は、同い年でも少し大人びた風貌で描かれています。

ユーリは、エロスの世界に片足を突っ込みかけているよう。

 

その証拠として、トーマに慕われるユーリは、トーマに対し、うっすらとした嗜虐心があったことを告白します。

 

エロスの世界に足を踏み入れ、蹂躙され、罪悪感という自己嫌悪から魂を殺して生きるユーリ。

「ユーリ、この世界にはアガペーもあるよ?きみの自己嫌悪をぼくが引き受けるよ。ぼくの愛を見て」と、ユーリの罪悪感と自己嫌悪を肩代わりし、自死するトーマ。

 

ともすると、弱者が弱者を救おうとし、傷をなめ合うドラマになってしまいそうですが。

そうならないのは、ユーリとトーマの人物造形が効いていると思います。

 

ユーリは、生きているトーマを拒絶し、こころを開くのは結局のところ彼の死後、エーリクとのやりとりを経過してからでした。

そして、トーマの遺志を代弁したエーリクからも、ユーリは去っていきます。

このユーリの頑なさ。

 

そしてトーマの強めのセリフですね。

「ぼくが彼を愛したことが問題なのじゃない 彼が僕を愛さねばならないのだ どうしても」

 

トーマの中で、アガペーが至高のものとして、迷いがない状態になっているから、ここまで強いセリフになるのかなと。

一人の人間に自死という行動をとらせる動機として、命がけの他者救済を持ってきたわけです。

対比として、同じ思いを持ちながらも見守るだけだったオスカーという上級生の存在があります。

しかし、見守ることでは、ユーリの心を動かすことは出来なかった。

トーマはオスカーと比べて、命を投げ出す激しさがあった訳で、それがユーリの救済に繋がっていく。

 

ふんわりとした少年同士の愛の物語というよりも、死をかけた魂のぶつかり合いが激しく描かれています。

現実的な価値観をいくつも否定し、フィクションという舞台装置がないと昇華できない葛藤。

改めて萩尾漫画の深淵に触れた思いです