2011年神奈川芸術劇場でのこけら落とし作品として初演され、同年NYリンカーンセンターフェスティバルにて正式招待作品として上演、2012年、赤坂ACTシアターにて凱旋公演を果たした同作。

原作は言わずと知れた三島由紀夫、演出・脚本:宮本亜門、主演:森田剛という、色んな取り合わせが異色の作品です。

まず、この作品を作り上げた演出家、スタッフ、演者の方々の演劇的、身体的、知的レベルの研ぎ澄まされ方と、クリエイティビティを、心から称賛します。

ここまでレベルの高い作品だったとは。

レベルが高いだけでなく、作品のもつメッセージの熱さ、情熱といったものに、ホントに深く感動したわ・・・ラストは涙なしでは観られませんでした。

ストーリーは言わずと知れた、昭和25年の、若僧の金閣寺放火事件がモチーフの三島の小説です。
吃音のコンプレックスを持つ修行僧・溝口(森田剛)を主人公に、同じ寺で修行する屈託のない鶴川(大東駿介)、大学で知り合う、足に障害をもつ柏木(高岡蒼輔)の3人の関係性を中心に、溝口がどうして金閣寺放火に至ったのか?戦前・戦中・戦後という時代を背景に描きだします。

特筆すべきは、亜門さんの舞台演出。
理詰めの三島節とも言える台詞を生かしつつも、この舞台の主役は、大道具を入れた演者さんたちの「肉体の動き」でした。
肉体の動きで、溝口の心情も、舞台背景も、時間変遷も、見事に表現しつくしていました。

まさにTHE・日本ていう価値観です。

本当に、この舞台の大道具の動かし方、人間の動きのフォーメーションは、いわゆる能のシテ的なものなんですけれども、オリジナリティがあってクリエイティブで、でも日本的な茶道などの精神性も感じさせ、素晴らしい亜門さんの発見だと思いました。

そういった演出面も、もちろん素晴らしかったんですけども、どうして自分がこんなに感動しているのか、いわゆる泣きの芝居でも無いのに、涙が止まらなかったのか?

それは、作品の持つメッセージ性、それが亜門さんのものなのか、三島由紀夫のものになのか分からないけれども、そこに物凄いインパクトがあったからだと思う訳です。


作品「金閣寺」の持つメッセージ性。


主要人物3人の属性の、吃音や足の障害、同性愛といったメタファーを使って描かれるのは、
「自分の内界と外界の間に扉があり、うまく鍵があいた試しがない。
それどころか、鍵は錆びついてしまっている。」
という、人間の誰しもがもつ、絶対的なコミュニケーション不全。

吃音=言葉、障害=肉体性、同性愛=性行動という、人間を構成する全ての要素をぶっこんで、社会の中で生きる人間の普遍的な「生き辛さ」を、複雑かつ明晰に、物語は切りこんでいます。

一方、時代背景は、日本人が価値観の大転換を迫られた戦前・戦中・戦後。
日本人の精神性の象徴でもあるような、京都・金閣寺の近くの寺で、修行僧という立場を借り、
「変わらないことが美徳だった価値観を、無理やり変えて、進まざるを得ない」
という、これまた過酷な環境が溝口を襲います。

そこでスゴイなと思うのが、三島なのか亜門さんなのか、作者の中でハッキリと、
「変わることの絶対普遍性=この世の中は全て、常に変わっていく」
という価値観が貫かれているところ。
主人公、溝口は、時代が変わっていくことに矛盾感を抱えながらも、自分も変わっていく訳です、しかも「強く」。

そこにある思いは、溝口にとっての「内界と外界をつなげたい=世界を変えたい」という、前向きな生きる欲求。

障害がある故に、ある意味強かに生きてきた柏木が言う。「世界は、認識によってしか変わらない」と。
この台詞、実はすごく女性的。
柏木は、世界の側を変えるのではなく、受け止め方=認識によって、世界を変えると言ってる訳だね。

それに対する溝口の台詞。
「世界を変えるのは行為だ。認識で世界を変えると言ったって、結局お前も、自由には生きられないじゃないか。」

この溝口の台詞、マッチョという意味ではなく、実に男性的。少年的というか。
溝口は世界とがっぷりよつに組み、その行為によって世界を変えるという考えにとりつかれる。

溝口にとっての世界とは。
金閣寺という、わびさび文化の対極にある、日本の完璧な美と富と精神性の象徴みたいな建造物に、凝縮していくんですね。

最初は、その美しさが分からなかった溝口ですが、徐々に、はっきり、この世界の理想の凝縮を見出していく。

故に、彼が世界を変えたい、長年苦しんできた内界と外界を繋げたい、と明確な意志というか目的をもった瞬間、それまでの理想の象徴だった金閣寺を、焼いてしまおうと。

世界を変える。
障害をもつ柏木にとっては、認識によって、世界の見方を変えることでした。
一方溝口にとっては、行為によって、世界の「見え方」を変えることだった訳です。
その自分の方法論に気付いて実行したときから、溝口は、「生きよう」と前向きな思いを口にする訳です。
これが、「金閣寺」のラストシーン。

世界を変えたいと思い、コミットしていく積極性、責任感、前向きさ。
それを獲得した溝口がやったことは、金閣寺を焼くことだった、という悲劇性。

人間が所詮、世界を変えたいと思うことは、大それた望みなのかもしれない。

でもそこを目指す、という人間のストイックさに、こりゃもう涙腺が刺激されて仕方ありませんでした。

何かを目指さなくてはいられない、少年性というか男性性というか。
日本人がいつのまにか、ぼんやりぼーっと平和ボケして女性化している間に、置き忘れてきた熱が、この舞台には見事に再現されていました。

男性性、女性性というと、ジェンダーみたいな感じですが、もっと根源的というか、BLスラングでいうと「攻め」と「受け」みたいな、精神志向性と思って頂きたい。
男性でもウケの人はいるし、女性でも攻めの役割の人はいる。

その「攻め」の人の心の叫びが、この物語には凝縮されているんです。

今の日本人が忘れきって途方に暮れているのがこの精神的な「攻め」感だと思う訳ですよ。
もはやどう攻めてイイのか分からないくらいのレベル。

でもそれを持たなくちゃ、人間が生きてることにならないだろ?という三島のメッセージが、この作品では、ホントに隅々まで明晰に鳴り響いていて、ブレないんです。

これはホントに・・・スゴイ作品と出会いました。

これからワタシは、真剣に三島作品を読みこまなくてはならん。と、謙虚に思いました。