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あんま体力無いとき、読むよーなマンガじゃないんですが。

 

つい再読しちまった、手塚先生の「MW-ムウ-」。

 

今年7月、玉木宏さん主演で実写映画が公開されますね。

 

主題歌はナヨナヨ系ロック最右翼の、flumpoolだそーです。ナルホドね~。



 

MWとは、「サリン」のような強烈な致死力を持つ架空の化学ガスの名前ですが、裏の意味は「Man・Woman」の頭文字を取っています。

 

これは、玉木宏演じる主人公、結城(ゆうき)が、その美貌で女性はもちろん、女装と同性愛関係を屈指して男性もを翻弄し、悪の道をひた進んでいく様を、もじっているのですね。



 

手塚先生は、「MW」で男性版ピカレスクを、「人間昆虫記」とゆうマンガで、女性版ピカレスクを描いています。

 

「ピカレスク」って何よ?っつーコトですが、端的にゆーと、「悪者が主人公の物語」ですね。

 

ダークヒーロー、アンチヒーロー物とも言えます。

 

フツウ、ピカレスクやダークヒーローっつうと、恵まれない生い立ちの主人公が、悪に手を染め、ヒトを殺したりするが、観客にだけはやむにやまれぬ事情が分かるように語られたりして、まあ「悲劇のヒーロー」みたいな感じですな。



 

ところがドッコイ、手塚先生はホントに文字通り、「悪」そのものを主人公にして、この2作のピカレスク・マンガを描いています。

 

他の作品で繰り返し描いている「悪に負けてしまう人間の弱さ」ではなく、これらのピカレスク物では、「悪そのもの」を描こうとしています。



 

端的に言いますと、主人公の「恵まれない過去」とやらは、それとなく語られてはいるが、彼らのトラウマとしては機能させていない。

 

寧ろ、それを逆手に取り、善良な人々をだます道具にしている様が描かれている。

 

また、「悪」を犯す理由が、復讐などでは無く、徹頭徹尾、彼らの「エゴ」に起因している様がセキララに描かれている。

 

んで、たいていこーいうダーティヒーローには、唯一ココロを許す恋人の存在などが描かれるのが定石だが、「MW」でも「人間昆虫記」でも、「愛情」でさえ、彼らの悪行の歯止めには全くならない様が冷徹に描かれるだけなのであった。

 

そして結末は、様々な人々が殺されたり破滅する中、「真性・悪」である主人公だけが、きっちり生き残っていくのであった。



 

まさに、あ~り~え~ねえ~、つう物語構造です。

 

なもんで、読了後は、胸にモヤモヤとした割り切れなさが残ります。

 

やっぱ人間て、根っからの悪を見せ付けられると、どーやってココロの平穏を保って良いか、分からなくなりますね。



 

しかし、なぜに手塚先生は、こないな「絶対悪」マンガを、わざわざ描いたのか?

 

しかもご丁寧に、男版・女版の両方を描いています。



 

これらの主人公が犯す「悪」は誘拐殺人だったり、大量殺戮だったり、まあマンガ的な荒唐無稽さに満ちたレベルなのだが、今なお手塚版ピカレスクは、不思議と新鮮なミリョクを放っている。

 

それはなぜかとゆうと、主人公にトラウマだの復讐だのといった人間的な「業」を一切背負わせず、故に感情移入を許さず、それでもなお、彼らに主人公としての「ミリョク」を感じさせてしまう、人物造形の巧みさだと思う。



 

一体、こないな「悪」を体現している主人公に、どんなミリョクがあるんだよ?

 

つー話ですが、うーん、ワタシも不思議です(おいおい)。

 

と言ってても始まらないんで、頑張って分析してみます。



 

まず一つ目は、彼らの「迷ってない様」がミリョク的、なんでは無いかと。

 

明らかにフツウ、良心が痛むだろ?とか、冷静でいられねーだろ?つう場面で、淡々と「悪」の道を、そろばんずくで選び取っていく。

 

迷いがちな現代人にとっちゃー、一歩間違えると危険なミリョクです。



 

で、明らかに「悪」を選んでいることで、人間的「愛情」を失ってくんですね、彼らは。

 

でも、根っから「悪」なんで、ヒトから信用されなかろーが、愛情を失おーが、無問題。とばかりに、淡々とヒトを切っていく。

 

その様が、「愛情に媚びてない」感じを醸し出している。コレが二つ目。

 

なぜなら、彼らに与えられる「愛情」が、決して純正100%の愛情じゃないからなんですね。

 

「愛情」っぽく見えて、そこは発信元が人間なんで、どーしても「性欲」とか「エゴ」とかが入り混じる。

 

だから、それを拒否する彼らが、「愛情に報いない」んじゃなくて、「媚びてない」とゆー、プラスな感じに描かれてるんですね。

 

ココ、手塚先生は、確信犯だと思います。

 

やっぱ安易に「愛情」を他人に与えられると思っちゃいけねーんだな・・・と痛感させられます。



 

つまり「絶対悪」である結城は、愛情や正しさに対する「リトマス試験紙」みたいな役割なんだと思います。

 

結局、彼を更正させる術が無いまま、マンガは終わっちまいます。

 

やっぱ、そー安易に、純正100%の愛情が生まれるコトは無いし、それ故「絶対悪」が更正されるコトも、レアである。

 

この世はやっぱり、前提としてディストピアなもんで。つーことなんではないかと。

 

そーいう世界観は、すごくワタシのそれとフィットしちゃうもんで、やっぱ手塚先生の作品が大好きだ~!!と、またしても叫んでしまうのであった。



 

この「MW」では、賀来神父の愛情が、最初は単なる「性欲+じゃっかんの愛情」だったのが、様々な試練を経て、最終的に「自己犠牲の愛情」に昇華していく様が描かれてるので、必見です。

 

・・・必見なんだが、映画版では、結城(玉木宏)と賀来(山田孝之)の同性愛関係は、割愛されるんだそーだ。・・・

 

これまた、あ~り~え~ねえ~な展開です。

 

わざわざ手塚先生が、1976年とゆー今より保守的だった時代に、ビッグ・コミックとゆー商業誌で敢えてタブーに挑戦して作った設定なのにさ・・・

 

そーやって簡単に、ヒトは日和っていくんですね。

 

ホント寂しい限りです。