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↑今はこういうので、昔の作品もサクサク観られる訳ですね。

私らの時代はTSUTAYAに借りに行ったもんだ…

 

 

 

 

今更ケータイ小説・・・しかも「恋空」かよ。っつー感じですが。

平野啓一郎氏の「小説の読み方」つう本に「恋空」が取り上げられてて、それを読みながら一つ、気付いたコトが。

 

まず「恋空」のあらすじとは・・・高校生のミカ(♀)の携帯を、ヒロ(♂)が拾ったことがきっかけで、付き合うよーになった二人。ある日中出しされたミカが妊娠するも、ヒロのモトカノにボコボコにされ流産。その後もすれ違いが生じるが、得意のケータイを屈指して、再度思いを確認しあう二人。が、ヒロはガンに倒れ死亡。ミカは、闘病中にまた中出しされ、ヒロの死後、二人目の子供を身ごもっていたことに気付き、一人で育てようと強く思う・・・・つうお話です(確か)。

 

映画じゃあミカを新垣結衣さんが、ヒロを三浦春馬さんが演じ、ワタシもシナリオの勉強の為、観に行ったさ。

ストーリーのトンデモ振りや、パクリ疑惑については、あちこちで散々取り上げられてるんで、今更言わない。

それより、90年代あれだけ一世を風靡した恋愛ドラマが、最近さっぱり視聴率を取れなくなってる一方で、「恋空」的なケータイ小説が一大ブームを巻き起こした理由が、ずっと気になっていた。奇しくも、ケータイ小説と映画は大ヒットした「恋空」だが、TVドラマは歴史的な低視聴率で惨敗だったし。

 

そこで冒頭の、平野氏「小説の読み方」を参照してみよう。

平野氏いわく、「恋空」では、

ヒロとミカが携帯のメールをやりとり→通話→直接会う→キスやセックスの肉体的コミュニケーション→第三者の介入によるすれ違い→肉体的コミュニケーションの拒否→通話拒否→メールで別れを告げる。

・・・と、コミュニケーションの深度と、彼らの携帯の使い方が、きっちりリンクしている。

そして、そんなコミュニケーションの有り様から起因する、「相手が何を考えているか分からない」というコミュニケーション不全感が、ひたすらこの「恋空」というお話のテーマになっている、と平野氏は言っている。

 

ミカがヒロに中出しさせちゃったのは、やっぱそっち方面でもコミュニケーションが取れてなかったから?つーことはまあいいとして、まず、ケータイ小説と映画の「恋空」にあって、ドラマ版「恋空」に無かったものとは何か?を考えてみたい。

 

キャストの劣化やブーム終焉もあるとは思うが、映画の封切り時はヒロ役三浦春馬もほぼ無名だったし、物語自体が超シンプルなので、「ストーリーが分かっちゃった。」つうことで客が離れたんでも無いと思う。

ではこのヒットの落差を生んだのは何か?

それは、「メディアの違い」なんじゃないだろーか?

 

ケータイ小説や映画は、受け手側が、作り手側のところへ赴き/アクセスし、能動的に情報を得るメディアだと言える。

ある意味、受け手側に「選別意識」をもたらす、「限定された場」なんじゃないかと。

一方、「TVドラマ」は、決まった日時に放映され、TVさえ持ってりゃー誰でも観られる、「公共の電波」ならぬ「公共の場」だ。

だが、この「公共の場」で語られるバックリしたドラマでは、若いモンにとっての存在証明や死活問題である「恋愛とゆーコミュニケーション」が、表現しきれなくなってるんでは?

 

それはTVドラマでのケータイの遣われ方も大きい。

TVではどーしても「連絡を取り合う」、道具的なソレになってしまう。

メールのやりとりで二人の距離が接近する・・・とゆう、もはや極めてオーソドックスな恋愛手順を、表現としては割愛せざるを得ない。

しかし、メール程、「選ばれた二人だけの秘密」感を演出してくれる手段って、無い。

映画「恋空」は映画館に行くとゆう行為で「選別感」が満たされるし、ケータイ小説は観てるメディア自体で常にそれを認識させてくれる。

 

でも、ソコを割愛された「公共の場」TVドラマじゃあ、「恋愛」における「秘密感」「選別感」の演出が、イマイチ足りない。

「恋空」では、恋愛に於ける「二人だけの閉じたコミュニケーションのすれ違いと回復」が、物語のテーマとなってる訳で、そこにマッチしないパッケージ=メディアでは、どうも興味が沸かない・・・・

っつー繊細な感性の人たちが、恋愛現役世代の大多数を占めてきてるんでしょう。

 

なんで、TVで王道ラブストーリーを描くには、ケータイが無くても成立する、ある種「現実離れしたファンタジックな舞台設定」がないと、今や感情移入しづらくなってるんだと思う(例:花より男子、イケメンパラダイス)。

 

ああやっとスッキリした。

正直、「恋空」みたいなトンデモ・ストーリーが流行るなんて、日本の将来は暗い・・・とまで思ってたが、意外と客である中高生たちは、繊細な感受性を持っていたのだね。

 

でも、コミュニケーションの有り様への感性だけでなく、それ以前に、実際に交流される感情の機微、のべつまくなしどこでもセックスしてしまうコトへの羞恥心、自分の食い扶持を自分で稼いで初めて所帯ってもてるんだよ、っつー自立意識など、身につけて頂きたいことは山ほどある。

入院中の癌患者への接し方(無断で連れ出す、セックスする、無菌室でケータイかける等)も、散々非難されてたが、恋愛至上主義とゆーより単なるバカだったし。

まあそれを、ちゃんと子供に伝えられてないワタクシ達大人が、反省しねーと・・・つう感じですが。

何よりこんなトンデモ映画作っちまって、金儲けがなされてる事実を、「恥」と感じないと。

だってちゃんとした現代のラブストーリーを、それと親和性のあるパッケージで売ってれば、そっちを観たはずだし。

 

平野氏は前述の本で現代のブログ文化も、小説を変える威力を持っているのでは・・・と危惧しているよーですが。

ワタシもブログ始めて、ビフォア・アフターで確実に自分が変わってるよーな気がします。

こーいうメディアを、小学生から使いこなしてたら、そりゃ我々とは違った人間が出来上がるよなあ。

ブロガーと非ブロガーの違いについては、個人的に興味深いんで、おいおい考えてみます。

そろそろ腹が減ったんで、食料を調達してこよーかと思います。

それでは皆さん、お疲れさまッスル~