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FLYERS

年齢や経験に関係なく、興味や関心への熱意にリスペクトします。
Fun Loving Youth enroute to Success

ヤフーブログの終了後、ブログ移行をあちこちにして、こちらで新しくする事にしました。

 

最終的に家族への記録??となれば良いなと思い、再スタートをしてみます。

 

バイクをいつ好きになったのか、は覚えてませんが、4~6歳の頃でしょうね。

幼少の頃、父の仕事の都合でインドネシアに赴任になり、1970年代ですから、おんぼろバイクが

とにかく自転車とごちゃごちゃで街を走っていたのをおぼろげに覚えています。

そんな中、当時の日本人在住者にはルールがあり、女中は3人雇う事、そして運転手を用意する事でした。

 

その運転手が、キモでしたね。

ヤディという名のおにーちゃんでした。すごく寛容な人間性で、家族はアタリの運転手を引きました。

彼は確か多分汚いカブをもっていて、そのカブの後ろに乗せてもらった。。。そんな所が今思い出せる記憶です。

そこから、色々刺激があって、順番はどうだったか分からないけど、風が気持ちいいとか、

もっと経つと倒れながら曲がれるのは何故?とかあったかな。

 

9歳、小学校三年生で帰国した頃には HONDAに入社したい!となってましたね。HONDAが『強い』位な感じ(笑)

実際に、ホンダ好きで、中2の頃には、もう最初から決めてました!のバイク BROSと出会い、いつかは乗るぞと

思えど、進学高校のせいだったのか、バイク好きな仲間にも恵まれず、ホンダ フラッシュという原付を乗り倒しました。

ここは何の修理もしないで終わり。

 

高校は、はっきりいって落ちこぼれ。なまじっか進学高校に行きながらも、全く勉強する気がなくなり、周りの天才たちとは

合わず、正直なんで高校行ってんだろ?くらい悩んでましたね。ガールフレンドといちゃつくだけになったり、部活だけに

打ち込んだり。ほんとクズに近い状態で、当然大学なんかは入れません。

 

で、浪人。頑張ったねー。3か月は。化学と英語は偏差値73まで行った。けど、3年も勉強しなかったんだもん。

頭の使い方なんて、記憶力しか上がりません。で、1年経って引っかかったのが夜間大学。

そこで、奮起。2年目の編入で昼間の学部に行けるとなっていたので、やろうと思ったが、ここで爆発した。

バイク漬けです。アルバイト先の先輩に凄いのが居た。走り屋も経験し、専門学校を卒業していてもフリーター。

定職もつかないニートって奴。でもバイクは凄かった。教えてもらった。

そん時、浪人中に金は一切使わなかったので、新車のモンキーを買っていて、40キロ離れた大学も、50キロ離れたバイト先にも

3つのバイトを掛け持ちして、親の望まなかった大学だったので、できる限りの負担を自分で払った。

本当の事実。教科書とか理系は高くて、どうせロクに使わなそうな授業の奴は、親友となった印刷会社の息子に教科書コピー

もらった。化学や英語はそいつは一切ダメで、俺は前述のとおり出来たので、たまたま出席番号順に単位の試験があったので

俺が書いた試験をすり替えてて提出して、楽々二人ともオールA。

 

親友も俺の影響でバイクにも乗って、ツーリングもいったな。酒が強くて、飯もすげー食うから、一緒にいると吐き気と食い気すら

失う程だった。

47歳になった今も、そいつも俺も、一回はバイクを離れて、今はまた乗っている。

 

そいつはバイク ホンダ CB-1~カタナ400~CB1000 事故  休止 シルバーウイング600 今ゴールドウイング1800かな?

 

俺は21歳で、最愛のBROSですっ飛んだ。意識不明重体。

その年は実は2月に本州を突っ切って、鹿児島まで行って、沖縄本島、与論島までのツーリングを成し遂げていた。

その後の5月、事故は起こった。

顔は粉砕骨折。左腕は開放骨折、肘は粉砕、右大腿骨真っ二つ。お決まりの奴かな?

 

で、当然、当時8台もあったバイクは親に処分され、バイクは禁止となった。

でも1年の入院のところ、2カ月半で退院し、教授に頼みこむ。なんとか留年はさせてくれるな!

その教授は3年の時だったので、研究室として決めていた教授で、大学でも力があった。そして、自分の成績・高校も確認して

教授の丁稚奉公をする事で、なんとか留年はとりとめた。

大学院の推薦ももらったね。でも親父に断られたし、俺には体の筋肉が完全じゃなく、ガテン系バイトで稼げるガッツはなかった。

そして、自分で考えた。なんでだかは知らない。

バイクは離れよう・・・・

 

で、繊維系会社へ入った。まぁ文化的な事好きで、インテリアやファッション、デザインは昔から好きだった。

 

つづく。。。