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KONCHAN音楽プロデューサ-のよもやま話

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岩佐美咲「鞆の浦慕情」聖地巡礼1 2014年の思い出の地を巡る

仙酔島~鮒番所跡~波止場~雁木~常夜燈 2025年8月26日

 

8/27長崎スタジアムシティハピネスアリーナで第1回ゴールデンステージが開催されることになりました。このイベントに合わせ私は長崎に遠征することになりました。8/25に福山に泊まり、8/26に岩佐美咲さんのヒット曲「鞆の浦慕情」の聖地である鞆の浦を訪問しましたので、この時のレポートを書くことにしました。この日の午後は福山から小倉、博多を経て夜には長崎に到着しました。そして8/27当日は灘崎の街をいろいろ散策しましたのが、この日の様子をレポートしておりますのでよろしければご覧ください。それでは8/26鞆の浦のレポート2回に分けて書きますのでよろしくお願いします。

 

 
姫路城
 
25日は新幹線とフリー切符を利用して15時ころ姫路駅に着きました。ここで駅からですが姫路城を見学しました。姫路駅からは一直線に大通りが延び、姫路城へと通じています。駅を出てすぐにキャッスルビューの展望台があり、ここからでもはっきりと姫路城を確認できます。姫路城については詳しく書きませんが、姫路市民、日本の誇りですね。
 
 
 
 
 

福山到着

姫路からは在来線で2時間半、福山駅に到着しました。福山市は広島県にありますが、広島市からは独立しており、独自の文化圏を構成していると思います。新幹線ののぞみが止まることからもわかるように、中国地方の一つの拠点ともなっている都市です。
 
私はここで尾道ラーメンを頂きました。麺は少し細め、スープは脂がぎっしり浮いて、すごくいい味です。濃厚ではありますが、しょうゆ味の食べやすい、とてもおいしいラーメンでした。

 

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福山城
 

福山駅北口を出るとすぐに目に入るのが福山城、ライトアップもされて大変美しいお城です。

福山城(広島県福山市)は、1619年に築城され、江戸時代後期に完成した「最後の名城」です。水野勝成により築城された後、明治期に廃城・取り壊し、太平洋戦争の空襲で焼失しましたが、1966年に天守閣などが復元され、現在は福山の歴史を伝える博物館となっています。特に、北側のみ鉄板張りという全国でも珍しい構造が特徴で、駅ホームから間近に見えることでも知られています。

 

 
 

 

福山バラ
 
福山バラとは、広島県福山市を中心に育まれているバラと、バラを通じた市民の「ローズマインド」を指します。福山市は第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けた後、人々の心を安らがせるためにバラの苗木を植えたのが始まりです。現在では街中に多くのバラ園が点在し、毎年5月には「福山ばら祭」が開催され、バラを愛する市民の取り組みが特徴です。

次の日の朝は6:40トモテツバスに乗り鞆の浦に向かいました。鞆の浦までは30分ほどです。
鞆の浦慕情発売時にはラッピングバスも走りました。
福山市の代表的な河川は芦田川です。芦田川は福山市街の西を流れて瀬戸内海に注いでいます。

鞆の浦近くになり、海と仙酔島が見えてきました。
 

 

以下のMV画像は鞆の浦慕情付属DVDより引用

広島の福山・鞆の浦は、景勝が見事であるというだけでなく、歴史の町であるということも、観光に訪れる人が多い理由です。海外から足を運ぶ人もいるほど、鞆の浦は日本が誇る歴史の町といってもいいでしょう。現在の広島県福山市の鞆町という鞆の地域(仙酔島、弁天島、つつじ島、皇后島、玉津島、津軽島を含むエリア)は、古代より潮の流れに左右された海運にとって要衝の地とされ、「潮待ちの港」と呼ばれ繁栄していました。人々が交流する場所であっただけに、布教の拠点ともなり、古刹が多く残っています。

 

鞆の浦慕情(2014年1月8日発売)

鞆の浦慕情」は秋元康により作詞、宮島律子により作曲されている。AKB48の楽曲を演歌バージョンにして「恋するフォーチュンクッキー」も収録されている。徳間ジャパンによると、演歌らしさを強く打ち出すため、秋元康が港や海を歌詞のテーマに設定、『崖の上のポニョ』のモデルとされ、、「趣のある港町の風景が曲のイメージに合っている」として広島県福山市の鞆の浦が選ばれた。MVはは2013年11月22日、岩佐が鞆の浦を訪れ、国史跡・対潮楼や弁天島などで撮影された。歌詞に合わせて仙酔島や常夜灯が登場する。2014年1月20日付のオリコン週間シングルチャートで、自身初の首位を獲得した。演歌歌手による首位獲得は、氷川きよしの「ときめきのルンバ」以来約4年5か月ぶり、10代の演歌歌手に限ると城之内早苗の「あじさい橋」以来約27年7か月ぶりとなった。

【初回限定盤 収録内容】
1. 鞆の浦慕情
2. 恋するフォーチュンクッキー<演歌バージョン>
3. 異邦人
4~6.上記楽曲のカラオケ収録(予定)
【DVD収録内容】
1.「鞆の浦慕情」MUSIC VIDEO
2.「恋するフォーチュンクッキー」<演歌バージョン>特典映像
3.「鞆の浦慕情」 MAKING VIDEO

【通常盤 収録内容】
1. 鞆の浦慕情
2. 恋するフォーチュンクッキー<演歌バージョン>
3. 赤いスイートピー
4~6.上記楽曲のカラオケ収録

2014年1月8日発売の岩佐美咲(AKB48)の3rdシングル「鞆の浦慕情」。この歌は,福山市を代表する「鞆の浦」を舞台に,大人の恋のせつなさを表現した歌となっています。歌詞には,仙酔島や鞆の津の港湾施設5点セットなどが登場し,潮待ちの港「鞆の浦」の魅力を存分に歌い上げています。岩佐さん自身も「今回は新曲『鞆の浦慕情』の舞台になっている,広島県の鞆の浦に行って撮影をしました。曲の歌詞と風景がマッチしていて…歌詞に出ている場所へ実際に行けるというのは,とても曲へのイメージがつかめました!」とコメントしています。福山市では,岩佐さんを「福山・鞆の浦応援特別大使」に任命し,観光地・鞆の浦を全国にPRしました。

鞆の浦慕情 作詞:秋元康 作曲:宮島律子 編曲:野中“まさ”雄一

 

 
 

7:15鞆港バス停に到着。すぐさま渡船で仙酔島へ向かうために船場へ行きました。

渡船場のすぐ西側に視線を移すと、美しい石垣が目に映ります。その高台の上に悠然と建つのが『福禅寺対潮楼』です。平安時代の天歴年間(947〜957年)に、空也上人によって、「観音堂」(天台宗)として建立されたと伝えられています。この日の最後の方にこちらへ訪問しましたので後ほどレポートします。
 

船員さんの乗っといていいよの言葉に出発10分前に船に乗り込みました。

平成いろは丸
ここ鞆の浦福山市営渡船場では、「平成いろは丸」に乗船できる。日中は1時間に3本のペースで運行、仙酔島までの乗船時間は約5分。料金は往復240円。坂本龍馬率いる海援隊が乗り込んだ蒸気船「いろは丸」を模した船で、平成22年(2010年)1月に就航。「いろは丸」は、1867年紀州藩の「明光丸」と衝突して沈没した蒸気船で、この事故は「いろは丸事件」として知られています。
MXでも岩佐さんが船から降りる場面がありますね。

 

 
 
弁天島のお堂が大きく見えるのは望遠を備えたレンズで撮っているからかもしれません
 

 

 

 

 

 

岩佐さんの座っているとこには座席がないですが、椅子を設置して撮影したのでしょう。

 

メイキング映像では船場から離れる際に岩佐さんが手を振っているシーンがありますね。

 

 

 

 
弁天島
 
仙酔島へ行く途中お堂が立った弁天島が見えてきます。弁天島は無人島で船が立ち寄ることはないのですが、MVではこの島に上陸し、海に向かってハンカチを飛ばすシーンを撮っています。何度もテイクを重ねやっと撮れたのがこのシーン。弁天島は1617(元和3)年に鞆の津を訪れた朝鮮通信使の日記にも「明秀奇絶」と記され、その景観が絶賛されています。朱塗りの弁天堂(福寿堂)が建っていることから弁天島と呼ばれていますが、正式な名前は百貫島といいます。その弁天堂は、1644(正保元)年に、鞆奉行・荻野新右衛門によって再建され、その美観を今日に残しています。また広島県重要文化財の「弁天島塔婆」もあり、文化的にも価値の高いスポットです。
 

 

 

 

 

 

仙酔島に到着しました。到着するとすぐ発車します。
 

 

 
仙酔島
 
仙酔島には「仙人も酔ってしまうほど美しい島」という意味があり、「山紫水明」とも表現されています。1925年、仙酔島は「名勝 鞆公園」に、1934年には鞆の浦や仙酔島を含む瀬戸内海一帯が日本初の国立公園に指定され、「瀬戸内海国立公園」となりました。仙酔島には、宮島の厳島神社・大鳥居建立の候補地になったという歴史があります。仙酔島は無人島でありながら、温泉や国民宿舎、旅館などの宿泊施設やレジャースポットがあり、シーズンには多くの観光客でにぎわいます。また、仙酔島にある「五色岩」に古代の神秘を感じる人も後を絶ちません。「江戸風呂(江戸風呂湯遊)」は、「人生感が変わる宿 ここから」が提案する究極のお湯処巡り。
 

 
 

 

現在遊歩道は途中までしか行けませんが、五色岩が有名です。五色岩は、日本で仙酔島にしか存在しない5色(青・赤・黄・白・黒)の岩の連なりのこと。
ドライブ日本産の記事より引用

鞆の浦海水浴場 仙酔島にある市営の海水浴場。仙酔島から徒歩5分程度のところに広がる海水浴場で、綺麗な砂浜が広がる。透明度が高くとてもきれいな水にびっくりしましたし、人が少なくとても癒される場所でした。
 
 

 

仙酔島から離れます。

 

 

 

船場へ戻り波止場へ向かう道、圓福寺があります。ここからの眺めも絶景でした。
 
圓福寺
 
圓福寺の始まりは室町時代に遡ります。当時の圓福寺は「釈迦堂」といって、現在の沼名前神社の南、小松寺の東に位置していました。圓福寺と号したのは、1610年末頃(慶長年間末頃)、住職の快音によって大可島城の跡地に移転した後のことです。美しい瀬戸内の島々や四国の讃岐山脈が眺望できる景観を有し、江戸時代には朝鮮通信使が来日した際の上官の常宿とされました。

 
 

 

 

 
船番所跡
 
大可島側の波止の付け根から内陸側に振り返ると、高台に「船番所跡」が眺められます。「鞆の浦慕情」の歌詞の中にも出てくる船番所はの江戸時代の初め、最初の鞆奉行・萩野新右衛門重富によって造られたものです。船の出入りや安全を管理・監督する設備で、今で言う港湾管理事務所にあたります。「船番所」の上手には、かつて延宝年間(1673~1680年)に鐘楼が建ち、鞆の浦の住民に時を告げる鐘が打ち鳴らされていたといいます。この鐘は1684(貞享元)年にさらに大きな鐘へと改鋳され、緊急事態の警鐘としても大働きしたようす。かつての鞆湾の警備の要です。江戸時代の見事な石垣が、しっかりと現代に残されています。建物は現在カフェになっています。
 

 

 

 

 
稲荷神社

 

 
波止場
 
現在の鞆の浦の波止の景観は、江戸時代から幾度となく造営を繰り返されて出来あがったものです。古くから鞆港は、東側の大可島や西側の明神岬、それに南側の玉津島などの自然の波よけのおかげで、天然の良港として栄えていました。しかし、近世初頭に大可島を陸続きにしたため、港の海底に土砂が堆積して浅くなったり、また台風は自然の波止ではさすがに防ぎきれずに、船舶が損傷を受けたりして、いよいよ波止場の造営の必要が出てきたのです。
 

 

 

MVでもきれいな夕陽をバックに、波止場の情景が美しく描き出されています。岩佐さんが歌う鞆の浦慕情の情感にもマッチして、私一人切波止場に立つ・・・残した愛も残された愛も潮待ち港 鞆の浦慕情お港♪という切なさがよく表れた場面です。波止場のシーンはこの歌の表す心情を一番よく表現する大事な場面と言えると思います。

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

港の向こうに常夜燈が見え、日本一美しい港と言われる通り、まさに絵になる情景です。

 

 

雁木

 

潮の干満に関らず船着けできる石階段、それが雁木です。満潮時には最上段が岸壁となり、干潮時には最下段が荷揚げ場となります。雁が飛ぶさまに似ていることから「雁木」と呼ばれるようになったんですね。最上段には明治から昭和期に作られた円柱形の船繋石(ふなつなぎいし)が等間隔で並んでいます。全国でも類のない鞆の浦の雁木の雄大さ。今では、鞆の浦の代表的な景観として、住民や観光客がゆったり腰を下ろす憩い場となっています。江戸初期に福島正則の家老・大崎玄蕃が満越(道越)の西側に雁木を造ったと文献にはありますが、昭和30年代にコンクリートで覆われています。また大坂屋が東浜に造営した雁木(対仙酔楼前のズベリと呼ばれる傾斜した石敷道)も、現在では県道となっています。

鞆物語サイトより引用

現在残っている雁木は、常夜燈前の「浜の大雁木」です。これは、1811(文化8)年に涌出岨(わくでそ)を埋め立てた際に造られたもので、「涌出岨浜大雁木」とも「保命酒浜大雁木」とも呼ばれています。鞆湾に情趣を添える、後世に残したい石階段です。

 

 

 

 

 

 

雁木と船、背後に広がる海の素朴な風景は、江戸時代からある港町そのもの、決してアピールするようなことはせず、人々を包み込み、心から癒してくれる、そんな懐かしい風景が鞆の浦の魅力です。まさに演歌的な演歌の心を歌った繊細で美しい情景、鞆の浦慕情ロいう曲もそんな素朴な風景と一体となったシンプルで素直な感情から生まれたのです。
 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
保命酒 入江豊三郎本店
保命酒の起源は約350年前、万治2年にまでさかのぼります。保命酒の生みの親となったのが、大阪の医師・中村吉兵衞。すでに醸造業が栄えていた鞆の浦のお酒と、吉兵衞の漢方の知識が合わさって、保命酒は生まれました。やがて保命酒は、江戸幕府より備後の特産品として庇護され、全国に知れわたるようになります。
 

 

太田家住宅
太田家住宅は、1991(平成3)年に国の重要文化財指定を受けました。瀬戸内海を代表する往時の商家の佇まいを今に伝える、歴史的価値のある建造物群です。詳しくは次回のレポートで述べることにします。

 

 

 

 

常夜燈

 

鞆港西側の雁木の南端に立つ常夜燈(とうろどう=燈籠塔)は、何と言っても鞆の浦の1番のシンボルです。「安政六年己未七月」(1859年)に建造されました。南に弓状の港を有する鞆の浦は多島海の天然の良港で、豊後・紀伊水道がぶつかる瀬戸内海の中央部に位置し、“潮待ちの港”として栄えました。1826年、オランダ商館の医師・シーボルトは『江戸参府紀行』の中で「活気に溢れた町」と記しています。その港町の海上安全を支えたのが、この常夜燈なのです。竿柱の南面に「金毘羅大権現」、北側に「当所祇園宮」の石額を掲げていて、海上安全の守護神に対する寄進燈籠という形式をとっています。1871年の公文書に「油一日五勺、燈しん一日五厘」とあり、当時は油(ニシン油)の燈火で海を照らしていました。

 

江戸期の港湾施設である常夜燈、雁木、波止場、焚場跡、船番所跡がほぼ完全な形で現存しているのは、全国でも鞆港だけなんです。ちなみにこの常夜燈は、海中の亀腹型石積まで含めると10mを越す大きさで、港の常夜燈としては日本一。瀬戸内の誇れる景観です。現在残る常夜燈は、太田家(当時は保命酒屋・中村家)がある西町が勧請して寄進したものです。対して、反対側の波止の先端には大坂屋が寄進した唐銅燈籠(からがねどうろう)が建っていたといいます。明治15年の水害で流されたもうひとつの幻の燈籠。文章は鞆物語サイトより引用

 
 
 

あなたは心の端に建つ燈籠燈♪ 歌詞に出てくる常夜燈はあなたの存在そのもの、鞆の象徴のように、私の心の中にしっかりと残ったあなたの存在と常夜燈の存在がリンクして見事に語られている。ここに作詞家としての秋元康先生の非凡な才能があるわけですが、鞆の浦の長い歴史がこの歌の中にしっかりと息づいて、奥ゆかしく風格ある曲として仕上げているところが素晴らしいと思います。鞆の浦慕情はその意味でいつまでも歌い継がれる名曲としての価値があるともいえましょう。