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KONCHAN音楽プロデューサ-のよもやま話

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岩佐美咲「鞆の浦慕情」聖地巡礼2  それは鞆の港の物語

太田家住宅~焚場~医王寺~沼名前神社~対潮楼~常夜燈

前回は福山に到着し、以下の地を巡る聖地巡礼の旅をしました。今回は太田家住宅~焚場~医王寺~沼名前神社~対潮楼~常夜燈とさらなる聖地巡礼の旅に出かけます。合わせて鞆の浦発売当時の様子を振り返ってみたいと思います。鞆の浦慕情は地元の方の熱い声援を受け、飛躍のきっかけとなった思い出深い作品です。岩佐美咲さんにとって鞆の浦は第2の故郷とも言わしめるゆかりの地です。今回この地を訪れることができて大変うれしく思います。それではレポートを書かせて頂きますのでよろしくお願いします。

 

岩佐美咲「鞆の浦慕情」聖地巡礼1 仙酔島~鮒番所跡~波止場~雁木~常夜燈

 

 

岩佐美咲「鞆の浦慕情」発売記念イベント 2014年1月7日池袋のサンシャインシティ

 

岩佐美咲が、3rdシングル「鞆の浦慕情」の発売を記念して2014年1月7日に、池袋のサンシャインシティ噴水広場でミニライブ&握手会を開催。新曲「鞆の浦慕情」とカップリング曲である「恋するフォーチュンクッキー」(演歌バージョン)を披露した。3回のステージが行われ、延べ約3000人の熱狂的ファンが詰めかけるた。「新年あけましておめでとうございます。先日、『無人駅』でデビューさせていただいたばかりのような気がするんですが、もう秋元康先生に3曲目を書いていただきまして、本当にうれしく思っております。少しずつ成長している私を皆さんに見てもらえるように頑張りたいなと思います」「ミュージックビデオの撮影で鞆の浦に行かせていただきまして、歌詞に出てくる場所とかを、秋元先生はここをこう思って書かれたのかなというのが、実際にその場所に行ってイメージがつかめて歌うことができました。日本一美しい港と言われているらしくとても美しいところでして、町並みもいい意味で昔と変わらず、すごく感動しました」と話した。

また、このイベントで「福山・鞆の浦応援特別大使」にも任命。福山市を代表するバラのイメージキャラクター“ローラ”ちゃんが応援に駆けつけ、ステージ上で任命とタスキの贈呈式が行われ、ローラちゃんからタスキを掛けてもらった。“わさみん”の愛称で知られる岩佐からは、タスキを掛けてもらったお返しにと、“わさみん 鞆の浦慕情応援隊長”と書いたタスキをプレゼントした。「鞆の浦のよさとか美しさを、この曲とともに全国にPRしていきたいなと思います」と意気込みを語り、バラのまちとしても知られる福山に引っかけて「私は今月30日で19歳になるんですが、10代最後の2014年は、少しずつ大人の女性になれるように、バラのように美しいけれどトゲがあるみたいな大人の女性になれるように頑張ります」バークスさんの記事より引用

 

岩佐美咲ブログより

岩佐美咲「鞆・一口町方衆」応援プロジェクト特別PR大使就任 2019年12月6日

福山市鞆町重要伝統的建造物群保存地区、鞆の浦には、中世の骨格を引き継ぎ江戸中期までに整えられた地割や、江戸時代からの伝統的な町家が石垣等の石造物、港湾施設等と一体となって良好に残っています。瀬戸内の港町として、山沿いから海に向かって中世から近現代までの街区が、まるで年輪のように集積しています。千年に及ぶ港町の歴史空間を巡る体験ができる点は、全国的にみても貴重であり、そこに建てられた建造物群も独特で、我が国にとって価値の高いものです。鞆の歴史的な町並みと人々の暮らしが醸し出す癒しの風情や、四季を通じて行われる伝統的な祭りや催しは、多くの観光客をひきつけ、世界的に知られる観光地となっています。他方、人口の減少とともに、空き家の増加や家屋の老朽化などにより、古い町並みは失われつつあります。また、人々が歴史と暮らしの中で守り育んできた祭事など伝統文化の継承にも影響を及ぼしています。鞆を再生・活性化するためには、地域と行政が一体となって、町並みを保存するとともに、安心して暮らし続けていけるまちづくりをすることが必要です。

岩佐美咲ブログより

 

鞆の浦の歴史

広島の福山・鞆の浦は、景勝が見事であるというだけでなく、歴史の町であるということも、観光に訪れる人が多い理由です。海外から足を運ぶ人もいるほど、鞆の浦は日本が誇る歴史の町といってもいいでしょう。現在の広島県福山市の鞆町という鞆の地域(仙酔島、弁天島、つつじ島、皇后島、玉津島、津軽島を含むエリア)は、古代より潮の流れに左右された海運にとって要衝の地とされ、「潮待ちの港」と呼ばれ繁栄していました。人々が交流する場所であっただけに、布教の拠点ともなり、古刹が多く残っています。800年代になると最澄によって静観寺(1300年代に焼失)が、空海により医王寺が、さらに900年代に福禅寺が建立されています。13世紀には今の安国寺となる金宝寺が建てられています。

交流拠点だった鞆の浦は、歴史の中では戦いの場でした。南北朝時代には、鞆合戦と呼ばれる戦が行われ、その間に静観寺五重塔は焼失してしまいました。 戦国時代は、安芸で勢力を持っていた毛利氏が興隆し、鞆中心部に「鞆要害」を築きました。これが後の鞆城になります。鞆は備後でも有数の拠点となっていました。 1573年、室町幕府15代将軍足利義昭は織田信長によって京を追放されます。足利義昭は、毛利氏や、現在の広島県福山市沼隈半島一帯を治めていた渡辺氏などの支援を受け、1576年にほかの幕府の武家とともに拠点を鞆に移しました。この勢力は、鞆幕府とも呼ばれたそうです。 江戸時代になると備後国を領有した福島正則が、鞆要害を鞆城へと拡大させようとしますが、徳川家康の意向に沿わず、工事は中止。その後、福島氏に代わって徳川家康の従弟水野勝成が備後福山藩の領主となりました。 1863年、尊皇攘夷派の三条実美ら7人の公卿が公武合体派によって京都を追われて長州に逃れる際、また翌1864年に長州から船で京都へ向かう際に、鞆港に立ち寄りました。その宿泊に使われたのが、福山藩の御用名酒屋を務めた保命酒の蔵元である中村家でした。明治時代に所有者が変わり、現在は太田家となっています。七卿落の遺跡であることも含め、1991年に国の重要文化財として指定されました。

いろは丸事件

その数年後となる1867年、海援隊が借り受けていた伊予国大洲藩所有のいろは丸が長崎港から大坂に向かっていたところ、備中国笠岡諸島付近で、長崎港に向かっていた紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突するという事件が起こります。いろは丸に乗っていた坂本龍馬など海援隊と、明光丸の乗組員は鞆の浦に上陸。坂本龍馬と紀州藩は、鞆の対潮楼などで賠償交渉を開始しました。鞆での交渉はまとまらず、長崎奉行所に場を移し、土佐商会および土佐藩と紀伊藩は継続して争ったそうです。

現代の鞆の浦

1934年に国立公園として、全国で最初に指定されたのが瀬戸内海国立公園です。その中で最初の指定地が鞆の浦と瀬戸内海に浮かぶ仙酔島でした。 時代が進むにつれ、航海技術が進歩し、鞆の浦の海上交通の要所としての意義は薄れていきます。さらに沼隈半島の先端に位置し、開発が進んだ鉄道や国道といった陸上交通から一定の距離があるため、鞆自体の開発は急速には行われませんでした。そのため広島の福山市鞆町には、名所旧跡や遺構そして歴史ある街並みが現在でも残っているのです。

 

 

太田家住宅

 

太田家住宅は、1991(平成3)年に国の重要文化財指定を受けました。瀬戸内海を代表する往時の商家の佇まいを今に伝える、歴史的価値のある建造物群です。主屋や炊事場、保命酒蔵が見事に保存されていて、玄関には杉玉掛けもあり、造り酒屋の構えをよく残しています。これらの建物群は江戸時代中期から後期にかけて、「旧保命酒屋」中村家が拡張・増築していったものですが、明治に入って廻船業を営んでいた太田家に継承され、今日に至っています。

 

1655(明暦元)年に大阪から鞆に移り住んだ中村吉兵衛は、1659(万治2)年に漢方薬酒・「十六味地黄保命酒」の製造・販売を始めました。「保命酒屋」(旧中村家)として、江戸時代の間は醸造販売権を独占し、隆盛。まさに鞆の経済の中心だったのです。

 

 

 

MVでもここ太田家住宅の前の道を歩く岩佐さんを見ることができます。朱色の和服を着て江戸時代の風情そのままに、しっとりとした面持ちで歩く姿は絵になります。

幕末の政変によって都落ちした三条実美ら尊王攘夷派の公卿7人が、鞆に立ち寄った際に一時の憩いを得たのが、この太田家住宅(旧保命酒屋)でした。公卿らは保命酒に陶酔し、その美酒を褒め称える歌を残しています。文章および下記画像は鞆物語サイトより引用


 

 

この地域は一部保存修理が行われていました。江戸時代にタイムスリップしたようなこの空間は永遠に残したい日本の町風景ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

そして民家を抜けて港ぞいの道を西へと歩きます。

 

 

焚場

 

鞆の浦の西端には「焚場(たでば)」が海中に現存しています。焚場とは今でいうドック(船渠/せんきょ)のようなもの。木造船の船底に付着したフジツボなどの貝類や海藻、船虫などを焼き払い、乾燥させて船命を長らえさせます。この行為を「たでる」といい、たでる場所を「焚場」と呼んだのですね。鞆の浦は潮の干満の差が大きく、また船鍛冶も盛んな土地柄で、焚場に適していたのです。この天然ドックの存在が鞆の浦の経済を大いに後押ししました。江戸中期を過ぎると、近隣の港も設備が整い、鞆港もうかうかしていられなくなりました。そこで1791(寛政3)年から波止の構築と共に、焚場の一部をより頑強に石垣で補強する工事が始まったのです。その石垣は残念ながら、現在調査中で見ることはできません。1827年の「河内屋文書」には、焚場の規模を100間(約180m)と記しており、また、文化文政期の記録には、大型船が年間900隻も焚場を利用していたとあります。広島県教育委員会などの調査によって、この焚場の所在地や規模などが確認されました。

MVにはシーンはありませんが、歌詞に「焚場」が出てきます。秋元先生は鞆の浦の事をよく学び研究して、大事なところを逃さず歌詞に盛り込んでいますね。

 

 

海から離れて逆方向に細い山道を100mほど登るとそこに医王寺があります。
 
医王寺
 
坂道や階段をえっちら上った先の後山(うしろやま)の中腹に、鞆の浦で2番目に古いお寺・医王寺があります。このお寺は826(天長3)年に弘法大師・空海によって開基されたと伝えられています。その後、火災で焼失していますが、慶長年間に、鞆城代・大崎玄藩により再興されました。高台にあるため眺めは最高で、鞆湾の全景が一望の下に見渡せます。1826年には、オランダ商館の医師シーボルトもツツジや松の観察のために、この小径を登ったのでしょうね。
 
MVの1コーラス目と2コーラス目の間奏で少しだけ鞆の浦の港の全景が映し出されます。この映像はは「医王寺」からの眺めです。しっかり望遠レンズで港をとらえて美しく撮っていますね。
 
医王寺の鐘の間から見る仙酔島も風情がありますね。
 
 
 
医王寺から少し坂道を下ると歩余の家が見えてきました。こちらは「楢村幸男美術館」と言いまして、ポニョの劇中に登場する、宗介の家のモデル?と言われてる建物です

崖の上のポニョと宮崎駿監督


画像
崖の上のポニョより引用
宮崎駿さんは鞆の浦で2ヶ月間滞在し、崖の上のポニョを描いている。ソウスケの家やボニョを発見する崖の場所、リサが車で橋を突破する場所など、見て分かる場所が多々ある。宮崎駿さんが滞在した目の前には弁天島がある、その向こうには仙酔島が見える、通称「亀島」とも言われる地である。画像はネタフルさんの記事より引用 
ここからさらに山を下るとたくさんの寺院が建っていました。鞆の浦は神社や寺院が数多く点在する、寺社めぐりにもってこいの町です。江戸時代初期、鞆城を築いた福島正則が、城下町整備の一環で「寺町通り」を造営。各宗派のお寺がほぼ一直線に並べられ、沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)の参道へと繋がっています。お手火神事が行われる沼名前神社をはじめ、鞆の浦の神社では毎年お祭りが開催されるのも特徴。鞆物語より引用
 
明圓寺
明圓寺|観光・アクティビティ|鞆の浦 潮待ちホテル
潮町ホテルサイトより引用
 
善行寺
やさしいお坊さんサイトより引用
 
 
地元の人に聞きながら数百メートル歩くと、私がどうしても行きたかった沼名前神社に到着です。鞆の浦では地元に人に道を聞いたりしましたが、途中までついていってくれたり、親切に道を教えてくれました。旅ではこのような暖かいおもてなしが嬉しいですね。

 

沼名前神社

 

「沼名前神社」は、鞆の浦の西方の山麓に位置する神社。鞆の浦で行われる多くの祭の舞台となるこの神社は、平安時代の延喜式にも記載されている由緒正しい神社です。海上安全に効験のある大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀る「渡守(わたす)神社」と、須佐之男命(すさのおのみこと)を祀り無病息災を祈願する「祇園社」。その2つの神社が明治時代に統合され、沼名前神社となりました。名前は変わりましたが、今でも鞆の浦の人びとは、この神社を「祇園さん」と呼んで親しんでいます。戦前まで鞆銀座と呼ばれ大いに賑った沼名前神社の参道では、ユニークな鳥居が目に付きます。すぐ脇の町家の手すりに突き当たるように建つ「一の鳥居」。また、笠木の両端に「鳥衾(とりぶすま)」が付く「二の鳥居」は他に類がなく、日本でここだけのものです。

 
 
 
 
この日は気温が高く急な坂とかを結構歩いたので、石段を見てめげましたが、ここで引き返すわけにはいかないと頑張って上りました。
 
 

 

境内には秀吉遺愛の能舞台があります。かつて京都伏見城にあったものを、福山城主・水野勝成が二代将軍・徳川秀忠より拝領し、それを沼名前神社に寄進したとのこと。 また、家康建造とも伝えられています。簡単に分解して移動できる組み立て様式の能舞台です。

 
 
 
岩佐美咲「鞆の浦慕情」沼名前神社でヒット祈願 2014年1月10日
 
私がどうしても沼名前神社を訪れたかったのは、岩佐美咲さんが「鞆の浦慕情」のヒット祈願でこの土地を訪れ、地元の皆さんと貴重な時間を過ごした思い出の地だからです。
以下はふくやまフィルム・コミッションの記事より引用させて頂きました。
 
2014年1月10日に岩佐美咲さんが沼名前神社(鞆町)を訪れヒット祈願を行いました。
鞆の住民や園児、小学生など450人が盛大にお出迎え。
「わ~さ~みんっ!がんば~れ!!」と園児たちが応援。
岩佐さんは、笑顔で声援に応えていました。
岩佐さんからのコメント:
鞆の皆さんに,こんなに歓迎してもらって,思い入れの強い曲になりました。
本当にありがとうございます。AKB48のメンバーにも鞆の浦のことをPRしています。
でも,メンバーからは「鞆の浦」の読み方がわからない…という人もいます(笑)。
この曲は,鞆の浦の美しい景色が歌詞になっていて,大人の切ない心を歌っています。
ぜひ,鞆の浦に来てこの曲を聴いていただきたいですね。

岩佐さんが鞆に到着
2014年1月10日【10時40分】
岩佐さんが福山市鞆町 沼名前神社に到着。
「鞆の浦慕情」のヒットを祈願します。
みんながお出迎え
鞆の住民や園児、小学生たちがお出迎え。
もちろん「わさみん鞆の浦慕情応援隊長」のローラも駆けつけました。
鳥居にさわる岩佐さん
【10時43分】鳥居にさわり,パワーをもらう。
(沼名前神社の鳥居)
鳥衾(とりぶすま)と呼ばれる特徴的な形状を持つ石鳥居(県重文)。
園児が声援をおくる
【10時45分】鞆こども園の園児が声援をおくる。
わ~さ~みんっ!がんば~れ!!とものうらっ ぼ~じょ~おっ!
ヒットを祈願
【10時50分】「鞆の浦慕情」のヒットを祈願。
絵馬を披露する岩佐さん
【10時55分】絵馬には「鞆の浦慕情がたくさんの方に愛されますように」
力石にさわりパワーをもらう岩佐さん
【11時00分】力石にさわり,さらにパワーをもらう。
(力石とは…)
鞆港で荷物の積み降ろしをする労働者たちが力比べをして,神社に奉納したもの。
海上交通の安全祈願も込められている。最も重いものでは230キロもある。
私も力石に沢井パワーをもらいましたよ
園児とふれあう岩佐さん
【11時10分】園児と触れ合う岩佐さん。「握手して~」と大人気!
園児のハチマキには「わさみん命」の文字が!
全員で集合写真!鞆の住民,鞆こども園,鞆小学校,鞆龍馬,ローラ・・・
「鞆の浦慕情を一緒に応援してね!」Byローラ
 
岩佐美咲「鞆の浦慕情」沼名前神社でヒット御礼イベント 2014年3月17日
 

1月にリリースしたソロ第3弾シングル『鞆の浦慕情』で、オリコン週間総合ランキング1位に輝いた岩佐美咲。同曲の舞台になっている広島・福山市の鞆の浦を訪れ、1位御礼イベントを行った。 この日、最初に向かった保育園 鞆こども園では、園児たちによる太鼓の演武で歓迎を受けながら、感謝状と金メダルも授与。さらに「僕たちが住んでいる鞆の浦の歌を歌ってくれてありがとう」、「私たちが大人になっても、おじいちゃん、おばあちゃんになってもこの歌を歌います」といった言葉をもらい、岩佐は「みんなの手づくりの心のこもった金メダルや感謝状をいただいて、とてもうれしかったです。大事にします」と感激しきりだった。

その後は、同園近くの沼名前神社に御礼参り。“鞆の祗園さん”とも呼ばれる神社で、去る1月10日に園児たちとヒット祈願に訪れ、絵馬奉納、力石をさわることで得たご利益もあって、今回ヒットしたことへの御礼を行った。 続いて久松通り商店街へ向かい、地元の人たちと同商店街を練り歩きながら「恋するフォーチュンクッキー<演歌バージョン~福山編>」のミュージックビデオを撮影した後、特設ステージで歌唱イベントを実施。約500人のファンが詰めかける中、「この『鞆の浦慕情』がオリコン週間総合シングルランキングで1位をいただきました。福山の皆さんの応援のお陰だと思い、今日はそのお礼をさせて頂きたくてここに来させていただきました」と挨拶し、新曲「鞆の浦慕情」など4曲を歌い届けた。

今回の訪問を通じ、岩佐は「今日は、鞆こども園の子どもたちが、まだ意味がよくわからない曲を一生懸命練習して歌ってくれたのが何よりもうれしかったです。子どもたちのまっすぐな目とまっすぐな気持ちがすてきで、もっと頑張らなければと思いました。今回、初めてその土地の歌を歌わせていただきましたが、『鞆の浦』が第2の故郷になったみたいです。この曲をもっとたくさんの方に聴いていただき、聴いた方が鞆の浦に行ってみたいと思っていただけるよう頑張って歌っていきたい」と、改めて鞆の浦や新曲への想いを強めたようだ。なお、岩佐は4月11日にMazda Zoom-Zoom スタジアム広島で開催されるプロ野球 広島東洋カープVS中日ドラゴンズの試合で、国歌斉唱と始球式を行った。ビルボードジャパンの記事より引用

岩佐美咲

10月14日に福山西警察署の一日署長を務めた。歌唱後、警察官の制服姿で一日警察署長任命式に出席、オープンカーに乗車しパレードを行いながら地元の市民や全国から駆けつけたファンに防犯や交通安全を呼び掛け、最終地点の鞆の浦で感謝状の授与式開催。画像は人民国日本さんの記事より引用 

 
沼名前神社からメインストリートへ出て東へ数百m歩き、商家の立ち並ぶ場所に来ました。
 
鞆の津の商家
 
主屋(切妻,平入)と土蔵(切妻,妻入)からなり,いずれも2階建で連接する。本瓦葺。 主屋は江戸時代末期の建築で,内部は通り庭(土間)に面して,店の間,中の間,奥の間が一列に並ぶ古い商家の間取りである。土蔵は明治の建築で,商品の収納場所として使用され,床を高くし,登り梁とするなど機能的にすぐれている。 本建築物は,鞆の典型的な町屋の好例である。
 
 
流星ワゴン しまなみ信用金庫
重松清による人気小説が原作の『流星ワゴン』は、西島秀俊、香川照之共演のテレビドラマ。広島県福山市鞆の浦を舞台に、交錯する時間の中で繰り広げられる父と息子の確執と、明かされる真実を描いた話題作です。鞆港を望む常夜燈や、ちゅうさんが借金のために訪れたしまなみ信用金庫、永田家となった建物がロケ地として有名になりました。
 
商家を抜けると海が見えてきます。私は鞆支所で休憩、屋上に上ると絶景が開けていました。
一息入れた私は海沿いを歩き再び船場のあるところへ。道を入ると福禅寺対潮楼があります。
 

渡船場のすぐ西側に視線を移すと、美しい石垣が目に映ります。その高台の上に悠然と建つのが『福禅寺対潮楼』です。平安時代の天歴年間(947〜957年)に、空也上人によって、「観音堂」(天台宗)として建立されたと伝えられています。のち、1638(寛永15)年に、後陽成天皇の第三皇子によって、真言宗大覚寺の末寺に指定。その際に、寺号が「観音堂」から「福禅寺」に改められ、そのまま、今日に至っています。「日東第一形勝」この「対潮楼」は、1694(元禄7)年に、憲意上人によって本堂が改築された際に、新しく建てられた客殿で、朝鮮通信使三役の迎賓館として使われてきました。つまりは、文人・墨客らの交流の場、サロンだったんですね。1711(正徳元)年、従事官・李邦彦は、そこからの眺望を「日東第一形勝」と賞賛。のち1748(延享5)年には、正使・洪啓禧が、客殿を「対潮楼」と命名し、書を残しています。ちなみに、この眺望写真、谷村新司さんが歌う「いい日旅立ち(山口百恵さんのカバー)」のCDジャケットにも使われました。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

MVの中でも子の絶景の額縁に収まっている岩佐さんの姿を見ることができます、
ややアングルも違いますが、さすがよいカメラを使っているらしく、背景の仙酔島がとてもいい感じで映っています。冷たい風 雲を筆にして 墨絵のようんあ海を描いている いつかあなたが教えてくた あれが仙酔島♪ まさにこの歌詞にあるような芸術の世界、このシーンがこの歌の歌詞の芸術性を表していると思います、 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鞆物語サイトより引用 観音様の撮影は不可でしたのでお借りしました。
村上天皇の后となった、この地(備後国赤坂村)出身の新庄太郎実秀の娘・明子は、日頃から千手観音信仰に篤かったといいます。そこで、后となった明子は、故郷に千手観音を祀るお堂を建てたいと思い立ち、空也上人によって「福禅寺」の前身となる「観音堂」が開基されました。ご本尊の千手観音は長い間、本堂の厨子の中で秘仏として安置されていたものです。
この双眼鏡からはちょうど弁天島のお堂が見えました。
 
 
結構長い時間景色に見入ってしまい、何十枚もsy審をとってしまいました。
 
 
 
時間があったので再び常夜燈のある場所に移り、のんびりと時間を過ごしました。
御舟宿いろは
この建物は、いろは丸事件で坂本龍馬が談判した歴史の舞台にも登場する由緒ある町家だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
12時ころ福山駅に戻り、13:16発500系ハローキティ新幹線で小倉へと向かいました。
最後に「鞆の浦慕情」の作曲者である宮島律子先生が、2023年1月のブログで文章を書かれておりますので引用させて頂きます

演歌歌手 岩佐美咲さんに 作曲した♬《鞆の浦慕情》の発売から今日で 1/8で  9年が 経ちました。YouTube  再生回数が  83万回を 超えて いることに  今し方気づき…今年も  記事を…

渋谷の TSUTAYAの 入り口の 柱には巨大ポスターが  貼ってあったのですね

写メを見つけ  ジンとしました

オリコン総合  2週連続  1位も振り返ると 改めて  感謝で 溢れます

池袋サンシャインの発売記念イベントも懐かしい

永きに渡り歌っていただいている岩佐美咲さん

親しんでいただいている皆様に心から感謝申し上げます

 

鞆の浦 わさみんバス | 宮島律子のブログ

photo:04

宮島律子先生この曲を作曲していただいたありがとうございました。

これからもよろしくお願いいたします。