平成24年の夏、大阪の長居公園にコンサートにやってきていた女性が、落雷のため亡くなった事故に関する最高裁判決が出ました。
女性の遺族の方々がイヴェント会社を訴えていましたが、一審、控訴審、上告審いずれでもイヴェント会社の責任は否定され、遺族側の敗訴が確定しました。
この件で、控訴審の大阪高裁は、イヴェント会社は具体的に落雷を予測しうる可能性がなかった旨判示し、その責任を否定しています。
過失責任が成立するには、結果を回避する可能性が必要ですが、その前提として結果の予見可能性が必要になります。
その予見可能性の程度がどこまで必要かということは、特に刑法の過失犯の領域で盛んに議論されてきましたが、①具体的な予見可能性が必要か、②抽象的な危惧感で足りるか、と大きく分けて二つの立場に分かれ、前者が通説で、判例も基本的には前者の立場に立つと理解する論者が多数です。
民事の領域でも、基本的には具体的な予見可能性が必要とするのが妥当でしょう。あまりにも偶発的な、不可抗力に近いような事故についてまで、加害者(?)の責任にするのでは、社会生活に大きな支障が生じかねません。
ただし、具体的な予見可能性といっても、それほど高度の蓋然性まで要求されるべきでないこともいうまでもないでしょう。結局は社会生活の円滑と被害者保護の調和点の問題であるように思います。
なお、長居公園の件の解決として、イヴェント会社の責任を否定したことの当否は、現時点では留保します。
女性の遺族の方々がイヴェント会社を訴えていましたが、一審、控訴審、上告審いずれでもイヴェント会社の責任は否定され、遺族側の敗訴が確定しました。
この件で、控訴審の大阪高裁は、イヴェント会社は具体的に落雷を予測しうる可能性がなかった旨判示し、その責任を否定しています。
過失責任が成立するには、結果を回避する可能性が必要ですが、その前提として結果の予見可能性が必要になります。
その予見可能性の程度がどこまで必要かということは、特に刑法の過失犯の領域で盛んに議論されてきましたが、①具体的な予見可能性が必要か、②抽象的な危惧感で足りるか、と大きく分けて二つの立場に分かれ、前者が通説で、判例も基本的には前者の立場に立つと理解する論者が多数です。
民事の領域でも、基本的には具体的な予見可能性が必要とするのが妥当でしょう。あまりにも偶発的な、不可抗力に近いような事故についてまで、加害者(?)の責任にするのでは、社会生活に大きな支障が生じかねません。
ただし、具体的な予見可能性といっても、それほど高度の蓋然性まで要求されるべきでないこともいうまでもないでしょう。結局は社会生活の円滑と被害者保護の調和点の問題であるように思います。
なお、長居公園の件の解決として、イヴェント会社の責任を否定したことの当否は、現時点では留保します。