鈴木大拙『日本的霊性』からの引用 | 空・色・祭(tko_wtnbの日記)


日本的霊性の情性的展開というのは、絶対者の無縁の大悲を指すのである。無縁の大悲が、善悪を超越して衆生の上に光被して来る所以を、最も大胆に最も明白に闡明してあるのは、法然ー親鸞の他力思想である。絶対者の大悲は悪によりても遮られず、善によりても拓かれざるほどに、絶対に無縁ーー即ち分別を超越しているということは、日本的霊性でなければ経験せられないところのものである。それで、ことに親鸞は日本の教主として聖徳太子に呼びかけるのである。親鸞は、法然によりて浄土思想に目覚めさせられたのであるが、彼は法然が言い尽くさなかった絶対他力的経験につきて、明白な霊性的把握をもつようになった。そうして彼は、法然から更に遡って聖徳太子にまで進んだ。親鸞は、自分の霊性が日本的なる所以を意識していたと言わなくてはならぬ。この意識がインドでもシナでも出来あがらなくて、日本でのみ可能であったという事実は、何かここに日本的霊性なるものの特異性を見出すことにならないだろうか。


鈴木大拙『日本的霊性』