鈴木大拙の色即是空の解説。空は死のことではなかった。 | 空・色・祭(tko_wtnbの日記)
『禅と日本文化』鈴木大拙著からの引用。

かつて、自分は「空」とは無や死の秘匿された言葉であると思っていたが誤りだったということを次第に自覚するようになった。


「一即多、多即一」という事実の直感的または体験的理解と名づけていいものは、どの仏教各派でも教える仏法の根本義である。  

般若経の語でいえば、「空即是色、色即是空」である。

空は絶対の世界であり、色は特殊の世界である。

禅の最も普通の文句の一つに「柳は緑に、花は紅」というのがある。

ここでは特殊の世界を直説しているので、この世界では、また竹は直く、松は曲がっているのである。

体験の諸事実がそのままに受け取られる。

禅は否定的、虚無説的ではない。

しかし、同時に特殊世界の経験諸事実は相対的の意味でなく、絶対的の意味において、いっさい空である。

絶対的意味における空とは、分析的な論理の方法で達しうる概念ではなくて、竹の直き、花の紅などという体験事実そのままを指すのである。

直感または知覚の事実を素直に認めることである。

知的作用という外側のものに向かわずに、心がその注意を内部に向ける時、一切は空からでて、空に帰することを知覚するのである。

而してここに往還といば往くと還るとの二つの方向があるかのごとく考えなければならぬが、その実はただ一つの動きてあることを知って欲しい。

この動態的同一作用ともいうべきものは、われわれ体験の基礎であって、一切の生活活動はその上に展示されるのである。

禅はわれわれにこの基礎まで掘り下げるべきことを教える。

『禅とは何ですか。』と問われると、『禅だ。』とか、『非禅だ。』などと禅者が答えるのは、じつにこの見地からである。



『禅と日本文化』鈴木大拙著北川桃雄訳