理路整然とした規則正しさ-グラデーションは純粋な美ではない。 | 空・色・祭(tko_wtnbの日記)
グラデーションは形式的なものですが、果たしてそれが純粋な美の範疇にあるのかどうか、つまり以前の記事に書いたことに誤りがないか懐疑的になりました。

純粋な美とは、目的なき合目的性、構想力と少しの悟性であり、主観的なものに拘らず、アプリオリで普遍であるというものです。

また、現実的なものではなく、「これは美しい」と万人に同意を得ることができるという理念である言います。

グラデーションがなぜ美的なのかということを考えると、目的なき合目的性という心的態度は妥当していると考えます。

しかし、構想力と少しの悟性という心的態度にあたっては、グラデーションはその範疇にはない。

構想力が自由に遊び悟性的認識に至らぬ、という心的態度が純粋な美であり、自由美、自然美とも言い換えられるものです。

むしろ、グラデーションが妥当しているのは次のものではないか。

「理路整然とした規則正しさは、目的を思い浮かべることができるから美的である。
しかし、その規則正しさが、目的に適っていない場合、退屈の念を感じさせることがある。また規則正しさは人の心を長く楽しませるものではない」

この謂は、純粋な美ではなく、むしろ有用性ではないか。

目的なき有用性という言い回しは目にしたことがないが、もしその言い回しが許されるのならば、グラデーションは目的なき有用性と言えるのではないか。

理路整然とした規則正しさ-目的なき有用性

有用性は、なにかの役に立つ上で合目的性であるという道具的な合目的性です。

もしそうなれば、構想力と少しの悟性という純粋な美の範疇にはすでにない。

むしろ、これも理性の能力に由来するものであると言える。

理路整然とした規則正しさ。

規定的なものであり構想力は少しも遊ばないが、目的なき合目的性である。

それは万人に普遍妥当するものなのか。

グラデーションをどう考えるべきなのか。

目的に適っていないと退屈の念を生じさせるという。