無事転職が決まり、プライベートが持てるだけの余裕ができれば、文化活動がしたいと考えている。
文化活動と言えば広義的な言葉であるから、漠然としいろいろな事柄を思い浮かべるところだが、僕が文化活動というのは、アートや芸術に傾倒した創作活動である。
それであるのなら、アートをやりたいとはじめから言えば良いじゃないかと思われるところだが、僕にそうさせない事情というものがいろいろとある。
アートという言葉は一般的に広く流布され使われている言葉であるが、その状況の中で一般的に思われているアートに対するイメージに対して、いささか従属するのを躊躇ってしまう部分が多いからだ。
例えば、芸術の師が芸術を志す人間に対して「君の内面が見えてこない」といった切実な言葉を放つ光景は、僕にとっては昔観た映画を彷彿とさせる。
またそれが、一般的にまかり通ったアートのイメージではないかと思う。
僕自身、美術大学に入学する以前は、そのようなイメージを持っていたのだが、次第に、それが一般的に間違ったイメージであると思うようになった。
表現者は何故に自らの内面を表現しなければならないのか。
表現者が自分の内面を表現することを一義的に考えているのであれば、それは自愛としか言えないのではないか。
その表現に文化的な価値はあるのか。
確かに、親切な批評家はそういった表現においても、なんらかの文化的な価値を見出して批評をしてくれることもあるだろう。
しかし、その場合、表現をする当の表現者は文化的価値に対して無為といった状況に等しく、文化的価値を追求している真の表現者とは言えないように思えてならない。
アートは自分を表現するもの、そういった一般的に流布された間違った見解に組み込まれながら表現をすることに、どうしても嫌厭の情を感じてしまう。
それであるから、アートをやりたいと発言することに対して躊躇いが起こってしまうのだ。
本来表現者はそうあるべきではないだろう。
ここで僕は建築家が雑誌に寄稿した文章を引用したい。
「私が昨今、自然界・有機生命体の非線形的振る舞いを建築秩序として採用しようとすることも、それをアルゴリズミックな創作プロセスとして提示しようと模索することも、それらは何も己の趣味趣向などではなく、自身の好き嫌いを超えたところでの新しい建築ヴィジョン(現代建築)を発見しなければならぬという使命に由来しているからに他なりません。因みに私自身は、非線形秩序も、アルゴリズムも、その根は実はとても古きものに根付いていることを始終言明しています。一見それは新しい顔つきをしていますが、実のところそうではなくてその背景にある本質は「古(いにしえ)からある東洋の摂理」に酷似しているのです。ですから今、それによって西洋主知主義(近代建築)を相対化できるのではないかと私は信じています。」
『GA_JAPAN_132』(文章=前田紀貞)
これは、建築家・前田紀貞という方が『GA』という建築雑誌に寄稿した文章である。
僕が今主張しようとしている内容にとって重要なのは、「己の趣味趣向などではなく、自身の好き嫌いを超えたところでの新しい建築ヴィジョン(現代建築)を発見しなければならぬという使命に由来しているからに他なりません。」という箇所である。
本来表現者はこうあるべきではないかと思わせてならない言説である。
表現をするに至って己の趣味趣向などは取るに足らぬ、そう思うことが大前提ではないのか。
己の趣味趣向の表現を禁じ、文化的コンテクストにあるものを奪取し、身に纏うこと、それが最も重要であるし、文化的価値に貢献することに繋がるのではないかと考える。
それであるから、表現者は絶えず先行する文化に鑑みて思弁を巡らし、創作に励まなければならない。
言わば、格好付けた言い回しになってしまうが、表現者は文化を映し出す鏡にならなければならない。
表現者は自らを借りて、そこで文化が表出するところのものでなければならない。
これが表現者の大前提であると思うし、僕自身の方針であり理想であり、表現者はそうあるべきだという表現に対する見方である。
それをこの記事において表明したいと考え、この文章を書いた。
僕自身の表現に対する理念である。
更には、文化の勉強をしなければならない。
そして文化活動をする。