臓器移植
脳死の場合の臓器提供ドナー登録が始まってからもうだいぶ経ちます
病院などではもうおなじみのごとく見慣れた黄色いカードですね
ドナー登録として持ち歩いている人もいるでしょう
しかし、登録制度が始まってから今までに移植手術が
行われたのは40件弱だといいます
この数字、多いでしょうか少ないでしょうか?
自分はとても少ないと言う印象を受けました
本人の同意がなくとも脳死を死と認め早めに臓器移植を
行えるようにすべきだと言う論調と
脳死であっても本人が同意していて家族も同意の上で
さらにちょうど移植に適した人が現れたときにのみ移植できるのが
原則だとする論調がぶつかっているようです
自分の倫理的には脳死は死ではないと思うのですが、
実際にドナーを待っている常況にあるとしたら脳死を死と認めて
できるだけ多くの提供を行ってほしいと思うでしょう
非常に難しいところですね
これとはちょっと違う話なのですが
イギリスの哲学者ジョン・ハリスがのような問題を提起しました
「 臓器移植技術が大変に発達した世界を想定してください
この世界では次のような強制的な臓器提供義務を負わせるくじを行う
制度を提案します
社会のメンバーのうち健康な人はすべてこのくじを引きます
このくじによって選ばれたメンバーは強制的に臓器を提供することになります
この提供によって一人の犠牲から二人以上のメンバーが
助かることになるので、今よりもはるかに多くの人が助かることになります
ただし、自分の不養生によって病気になった人には提供はされません。」
この議論において健康なもの、不養生なものを識別する社会的なコスト
及び、制度が政治的に悪用される道徳的危険を度外視した場合
この制度を否定する議論はきわめて難しいです
たとえば、健康な人を殺して臓器を提供させることが非人道的であると言う
一番多く出る理論に対しては、ここで言う臓器受益者も何の罪もなくただ
運が悪かっただけで死を免れることができないのだからこれを見殺しにすること
も同じく非人道的であると言えます つまり、たまたま健康な人が
不健康な人よりも生きる価値があると言うのは社会的に不公平だということです
また、この制度が導入された場合安心して暮らすことができずメンバーは
一人もいなくなるはずであると言う意見に対しては、交通事故で死亡している
確率よりも小さい一万分の一程度をくじの確率とすれば良いといいます
つまり、交通事故で死ぬことを恐れてメンバーが一人もいなくならないので
あれば、くじであっても同じことであると言うのです
さらに、健康でなくなればくじを引かなくてすむので皆が不養生になるのではないか
と言う意見に対しても、確率をある程度下げればわざわざ不健康になる人は
あまりいなくなるといいます
こう考えるとなるほど反論するのはなかなか難しいです
人間の倫理観からはこの問題に対して反論することができないのでしょうか?
今のところ自分の中で答えは出ていません・・・・