六、私の母の場合
五年生の一学期が終わる頃、母が真剣な顔で「ごめんな、いろいろ頑張ったけどもうダメなんよ、お父ちゃんとお母ちゃん、離婚することになったから」と、私に話す。
「えー」しか言えなかった。もちろん、大変なんだと言うことは知っていた。父は商売をしていて、私が生まれた頃は女工さん相手のお好み焼き屋さん、そのあとは居酒屋などどんどん手を広げて行った、儲かってはいたが、もうかった分、豪遊、博打など派手にお金を使う人だった。当時居酒屋が流行っており、母も手伝っていたのだ。私も夜は居酒屋のカウンターで宿題をしていた。しかし、儲かると何日も帰ってこず、お金を家に入れない日が続き、母と何度もボート場や競輪場に探しに行って、館内放送で呼び出し、父からお金をもらうと言うのが日曜日の母と私の仕事であった。
だから家計は大変なのはわかっていた、しかし父は優しかった。たまに帰ってきては、ドライブに連れて行ってくれ、なんでも好きなものを買ってくれた。私は父の愛情を試す様に高いものを選んでねだっていた。ある日自分の大きさと変わらないくらいの熊のぬいぐるみを買ってもらい、エルちゃんと名付けて、いつも一緒にいた。
だから父が母と別れて私から離れるなんて!
家族という1番身近な形態が壊れることがあるんだと、ショックでショックで、受けとめることができなかった。
でも母が、「お母ちゃんは、お父ちゃんと別れてもちゃんと看護婦の資格持っとるから病院で働くことにするな。お金の苦労はかけんからな。お母ちゃんについてきて、おんなじ様にお父さんがおらん人たちが住む、お家に入れることになったから、寂しくないからついてきて」と、真剣に話してくれるので、ついに折れて、離婚に賛成することにしたのだ。みつこ、五年生2学期の夏休みのことでであった。
「みっちゃん、最後の晩餐や」と私と母を高級寿司店に連れて行ってくれた。
個室で向かい合って無言のまま、寿司を食べた。「こんなことになったけど元気でな、困ったことがあれば店にいつでもきてくれたらええから」
私は何も言わずに頷いた。「お父ちゃんは口がうまいからあんまり信じんほうがええよ」と母が言う。
「さあ、みっちゃんが食べたらお別れじゃ、早よ食べて」と母がせかす。私は最後のタコが噛み切れずもぐもぐ、「まだ口にある」と
なかなか立ちあがろうとしなかった。
全部食べたらお別れ、その言葉が頭の中でぐるぐる。「まだタコが噛めんのじゃ」と粘ったが、待てれない母が席を立ち、私を引っ張り上げ、行くよとお店を出てしまった。
「みっちゃん、元気でな、おおきゅうなれよ」と父が頭を撫でてくれた。私はまだタコを口に入れ目に涙を溜めて、大きな父の手をじっと見るしかできなかった。
商店街の人混みに消える父の姿にもうお父ちゃんは人混みの中の知らない人になるのだと思った。母は清々しい顔をして、「また明日から前に進もうな」と私の肩を叩いた。
昭和四十年代のその頃は、離婚がまだ珍しく、当時担任だった熱血男性教師が、涙を流して「前川、だいじょうぶか、頑張れよ」と励ましてくれた。そして何を考えたのか、成績をとても良くつけてくれたのだ。当時は5段階で、私の成績は苦手な理科や算数が2で、あとはほとんど3、国語が4で音楽が唯一の5だったのに、なんと、その時は苦手な算数が3であとは4と5ばかりで5も四つもつけてくれていた。今思えばはなむけの気持ちだっただろうが、新しい学校の先生の第一声は「前川はめちゃくちゃ勉強はできるんじゃなあ」だったのだ。困ったスタートになった。
新しい学校は同じ市内でも、街中にあり、勉強も進んでいて、ちんぷんかんぷん。
私はもう友達を作る!を目標にして学校生活を楽しむことにした。
前の席の女の子は牛乳屋の娘で親も忙しくしてるので放課後しょっちゅう一緒に遊ぶ様になった。道代というのその子のことを、みっちー、私のことをみっちゃんと呼び合い、毎日毎日一緒にいた。学校の帰りにミッチーの家に遊びに行っては牛乳をもらったり、犬と遊んだり、だんだん遅くなってしまっていた。ある日寮の太田先生が心配して、「みっちゃん、学校からまず帰ってきてから遊びに行かれよ」と注意された。
「なあなあ、お友達連れてきてもいい?」と太田先生に聞くと「ええけど、ここはみんなで暮らしてるところだからみんなのリビングだけだよ」 「わかった」
次の日さっそく、みっちーを招いてリビングで本を読んだり、卓球をしたりと大はしゃぎ。「みっちゃんち楽しいなあ、いろんなもんがあるし」というミッチーに「お風呂も広いんよ」と自慢した私。「入る入る!」と叫ぶミッチーの声を聞き太田先生が飛んできた。
「みっちゃんここは普通のお家じゃないから外からの人がお風呂とかに入ったらいけんのんよ、ごめんな」残念がってる私たちに、100円ずつくれて、この近くに銭湯があるから行く?と言ってくれ、私たちは飛んで銭湯に向かいました。
まだ4時ごろの銭湯は空いていて、泳いだりもぐったり。
ミッチーが「見てみて」シャンプーのコマーシャルみたいに髪を振る
「一回やってみたかったんよな」とご機嫌なミッチー。「ええなあ、髪長くて、うちは無理ー」2人の笑い声が、お風呂屋の高い天井まで響く。
私はすぐに。新しい学校にも慣れて、夏休みの間に寮のおばちゃんたちとも仲良くなれて、絶好調だった。その頃の私は、親が離婚しても楽しい、お父さんいなくても大丈夫、たいしたことないじゃんと思っていた。いや思おうとしていたのだ。
それがやっぱり無理だった、転校して、2週間くらいたったころ、体に出たのだ、熱が出て学校を早退きしたのだ。
学校から帰ると太田先生が待ち構えていて、
「みっちゃん、大丈夫?先生が布団敷いてあげるから、パジャマに着替えて寝られー」と
部屋まで上がって来たのだ。
「大丈夫です、布団も敷けるし、着替えて寝てますから」とそっけない態度で私は太田先生を追い出しとにかく布団を敷いて、パジャマに着替えて布団をかぶって寝ていた。
するとまた太田先生が上がってきて、のみものやらみかんを置いて、私の枕元に座っていろいろ話しかける。「どしたん?布団に潜って寒いの?」と先生に聞かれ、ううんと首を横に振る。
「みっちゃん、暑いんちゃう?すごい汗かいてるで、ふとんはいだろか」「だめー」私はボロボロの擦り切れている古いパジャマを着ていた。母の勤めが落ち着いたら買ってあげると言いながら、古いものそのままにして前の家から持ってきているのだ。枕も布団もパジャマも誰に見せるものでもないから当分我慢してと母が言ってたのに、みられたやないか!
みられては困るんよ、その気持ちが「ダメ」の大声になったのだ。そんなことしてたら母が仕事を早退きして帰ってきた。「先生、ありがとうございました。なんじゃろか知恵熱やろか?」と言いながら部屋に入ってきた。
太田先生はその姿を見るなり「この子可笑しいねん、暑い言いながら布団に潜って、よう、わからんわ」
「まあまあすんません、時々わからんとこでこだわるんよこの子、ごめんなさい、面倒かけました」
太田先生が部屋を出ると、私は掛け布団を蹴飛ばして「あー、暑かった、こんなボロボロのパジャマ見られとおなかっただけじゃ」
と言うと、「あんた、そんなこと気にしてたん?ええんよ、ここではもうカッコつけんでも、いろいろ辛い思いしてきて家族が壊れてる人ばかりじゃから、ありのまま出したらいいんよ」
と母が言った。
「やっぱり、うちの家族って壊れたん?なんで壊れるん、壊していいん?うちは、おばあちゃんのこともほって出てきたお母ちゃんのこともわからんわ。仲良かったが!お金なくても」
「ごめんなーでもお父ちゃんは都合悪くなったら暴力振るうし、おばあちゃんの介護してもなんの感謝もなかったし、とにかくお金もまったく家に入れてれんかったし、みつちゃんからいい家族に見えとったんかもしれんけど一緒におった時から壊れとったんよ、それだけはわかって。おばあちゃんのことは、みっちゃんのおばあちゃんと言うことは変わりないんじゃからこれからも会いに行っていいよ。でもお母ちゃんにとっては他人じゃから、たぶんあんたが結婚する頃はわかってくれると思うわ、おばあちゃんが他人という意味。だから今はごめんとしか言えない。」と優しく撫でながら話してくれた。
「ご飯食べれる?なんかいるものある?」
「そりぁ、熱といえば、はったい粉じゃろ」
と私が言うと母が作ってくれた。
「美味しいなぁ、熱が出てよかった」
「みっちゃんはバカじゃなぁ。元気が1番」 と言う母の声はなんだか寂しそうだった。
「わかった、うちもう、病気せん!ほんでなーお父さんがおらんでもなんかあの子幸せそうじゃなぁと思ってくれる様に頑張るわ」と変な決意表明をしたのだった。
その言葉通り新しい学校では、たくさんの友達作って毎日遊び呆けて、楽しい毎日だづた。みるみる成績は下がって行ったがそんなもん平気だった。ただ、成績優秀の転校生と期待の眼差しを私に向けていた担任女性教師だけは「前川さん、がっかりじゃ
と何度も言っていた。
年が明けて3学期が始まったころ、母が興奮して帰ってきた。「新しい市営住宅が建つことが決まったんよ、今年の夏らしい、応募してみようかと思うんよ、母子家庭は入りやすいみたいじゃし、学校変わさらんといけんけどいいよな?」と、言う。
「えー、うちがおらん様なったら、ひでこの母ちゃんの話は誰が聞くん?最近やっと仲良くなったさだちゃんはどうなるん?」
「いつかは別れんといけん日が来るんじゃから、そんなんようたら、ずっと小鳩寮におるんかな?
あんたは!、
そーじゃ、よし、ほんなら、みんなの心に残る思い出づくりをしようか!お母ちゃんに考えがある!」
