父 荒木村重の遺志を受け継いだ又兵衛は、『武』で怨念を晴らすのではなく、平和的な『絵筆』を用い、絵巻物の物語の中に殺人場面を登場させて、その残虐さを眼前で曝らすことで、人の命を奪う残忍さを伝えた。

一方、庶民の生き生きとした表情を絵の世界に散りばめることで、平和な世の中のあり方を表現した。


私は、かつて福井県立美術館にて「岩佐又兵衛展」が開催されていた最中(2016年8月)、福井市で活動されている「松平忠直卿に光をあてる会」から招かれて『「憂世」から「浮世」を希求した浮世絵の 元祖岩佐又兵衛』の講演会を、パワーポイントを使用して、又兵衛の菩提寺・興 宗寺で行った。


前日八月二十六日の福井新聞では「忠直と又兵衛の実像に迫る」と参加を呼び掛けて下さった。


講演会は、又兵衛の父親荒木村重の「卑怯者」の汚名返上を期する目的もあった。 


忠直卿も菊地寛の小説『忠直卿行状記』で汚名が着せられている。

一般的に、小説と現実を重ねて認識され、特に小説や記録は針小棒大に表現されることが多く、誤解を生み易い。


「松平忠直卿に光をあてる会」の代表者の方々とのディスカッショ ンもあり、盛り上がった。忠直と村重両者ともに悪者にされているが、実像はそうではない。


徳川家忠直は秀康から跡を受け継いだ鳥羽野の開拓事業に尽力し、「名君」として親しまれていた。忠直の開拓事業、北陸街道を整備し、発展させたにもかかわらず、 寛永元年(一六二四)、豊後国(現在の大分県)に配流された。その後の忠直は出家し、 「一伯さま」と呼ばれ、名君として親しまれている。


慶安三年(一六五〇)、五十六 歳で亡くなるまでの二十八年間はひっそりと静かな暮らしを送った。又兵衛の生い立ちの悲劇を忠直はよく理解し同情したと思われる。



岩佐又兵衛