モデルは一般的に美の権力なのかも知れない。存在の権力が美にはある。


デザインによって、存在が変わる。
ある意味で、これは、
コスチュームとか、
社会性とか、その辺りも、あるかな。

銀座の歩行者天国は、勝手に、
ブランド品とか、(自分たちの好きな、)
自分で、作った服とかを着て、
練り歩きながら、ビデオとか、
撮影できる、
自主的な、勝手に、
それと言わない、ファッションショーが
できるとわかった。

とりあえず、銀座の歩行者天国を歩いていると、ファッションショーの人、みたいになれる。モデルさんたちに、
一番好きな格好で、来てもらって、
練り歩きたいな。
なんか、みてると、今の流行りとかに、
すごく意識がすんなりのって、
後から、ぎゃふんで、
騒いだりしてるのをみたり、
なんでも、流行 っていいながら、
今は、これで、とか、マーケティングに
のせられて、これが自分だ、
みたいにさせられてるのに、
無自覚な、購買者にさせられて
いたりのを見ていると、
まぁ、新しいの、新しいの、とか、
それって、売ってる側のサイクルで、
それにのせられて、
お金、貯金できないだろうね、とか、
なかなか、それに無自覚なのが、
おもしろいけど、知らない方が、
勢いよく、生きてはいけるよね。笑。

なんでも、新しければ、いいで、
そうでなければ、だめなのか、は、
あるなぁ。

新しく出ているから、
とは、いえ、かつて
どこかで、
あったかも知れず。

自分で、
本当にいい、と、見れるならば、
買っても、いい、だな。

あと、古くなっても、
いつまでも、着たりとか、
ちゃんと、洗って、
保管しての
サイクル的なつきあいが、
できるか、とか、あるよな。

なんでも流行を
追う方が、
たのしいかも知れないけど、
そのままのせられるのが、
うらやましいなぁ、とかは、
あるね。うらやましい。

ぼくの場合、
前で思考して、しまうからね。
言語とかでね。
流行無意識みたいな
流れには、ならない。

あと、買うときも、だいたいから、入って、やはり、
自分で、いいもの、買うよね。
流行はあってもいいけど、
なんでもかんでも、新しければ、
かっこいいのかは、ちょっと
ちがうね。

やっぱり、自分で、かっこいい、と
思ったものが、1980年代の
ものでも、いいし、
自分を基点にして、見定めないとね。

1980年代のファッションに
インスパイア、された、とか、
今をときめく、年代ものとか、
自分で、かっこいいか、ど、う、か、だよね。

流行はあっていいけど、
自分のスタイルを、守る美学の方が、
いいんじゃないかな。

これは、ファッションについての、
流行だったりだけれど、
自分で、興味でなかったら、
まぁ、いいか、くらいで、いいね、
の話だね。

流行なものは、チェックしてるし、
実は、好きだったりするけど、
ウォッチャーでしかない。

やはり、流行にかんたんにはのらない、
知性は大事じゃないかな。
なんか、簡単にのせられて、
話題にしてるのを、みると、
よこからで、申し訳ないけど、
ふ~ん、ってなる。笑。
流行ばかり追いかけて、
かっこよく、貯金しないで、
破産気味のバブリーな
人も、なかなか、いいけど、
やはり、
自分で、いいものを、
自分の存在と対話し、つくりあげる
ようなものを、選んだほうが、いいね。
そうおもったりします。

あと、実売の時期を過ぎると、
物って、「命がけの飛躍のポテンシャル」をうしなって、
なんか、価値がないかのような
かんじになるからね。

逆に、流行にのれば、実売の命がけの飛躍のエネルギーで、まぁ、すごい人になれた、感じには、なれるね。

結局、一人。
最後は自分の存在と
合うか、どうかだな。
流行がそれだと
スパークするよね。笑。

つまり、トップモデルを生みだすことは、純潔なるあそびであり、
これが純心至上のある
到達点に
交差する社会的関係性の所産、
すなわち、奇跡なのだと。

簡単なるゲリラ戦。

有名人の束。

有名人の花束が
ひとりをメディア的に
合一的に、すなわち、
勝利する種としての恍惚と。

繁栄の恍惚

モデル2.0なトップモデル。
(ハイブランド化。)
革命。

徹底的に社会的である時の
タオ、
そして、タオ、「道」から、
すなわち、社会的な流れを
下から見ている権力。

そのような音楽が必要なのだ。