人間という生き物にとって、

もっとも重要な器官は、「脳」です。

 

その理由は、脳で人格が形成されるからです。

ヒトという生き物がそのほかの生き物と一線を画す大きな理由が、

「人格」を持っていることであり、

その人がその人である理由は、

ひとえに、その人の脳がそういう脳であるからです。

 

「脳」は本当に重要なんですね。

 

筋力が強い人、胃が弱い人、骨が丈夫な人、

体にはいろんな強弱の個性がありますが、

「脳」も体の他の器官と同じように、

「高性能な脳」と「性能の劣る脳」があります。

 

その人の脳が高性能になるか、そうでなくなるかは、

生まれつきの部分もあるでしょうし、

生まれてから成熟するまでの間に、どれくらい鍛えたか、

ということにもよるのだと思います。

 

脳の仕事とは「考えること」ことなので、

つまり「高性能な脳」とは「考えることが得意な脳」です。

別の言い方をすると「回転の速い脳」といえると思います。

 

脳をコンピュータのCPUに例えるなら、計算速度の速いCPUですね。

そういう脳を持った人を、「頭のいい人」とか、

最近では「ジアタマのいい人」などとも言ったりしますよね。

 

そういう脳を持った人は頭の回転が速いので

周りの人よりも速く結論に達したり、同じ時間を使えば、

より深くまで考えることができたりします。

 

 

さて、人格というのは、脳で形成されると言いましたが、

「優れた人格」というのは、頭の回転の速さで決まるものではありません。

 

「考える速さ」というのは「筋力が強い」みたいなものですが、

人格ということになると、「何をどう考えるのか」ということが重要になります。

筋肉に例えるなら、「筋力を、何にどう使うのか」ということです。

 

その人が人格的に素晴らしいかどうかは、

頭の良さ、回転の速さとは無関係なのであり、頭をどう使えるのか、

という問題なのだ、ということなのです。

 

では、「優れた人格」なんてあるのでしょうか。

 

人は千差万別であって、それぞれが尊重されるべきであり、

それぞれの考えに「どれが絶対的に正しい」というのはありません。

 

しかし、そのような「個の尊重」という概念が生まれてきた背景には、

力の弱いものが虐げられてきたという人類の歴史があって、

そのアンチテーゼとして、

「どんな人も尊重されるべきだ」という考え方が生まれているわけです。

 

ここで言う「どんな人も」とは、端的に言えば弱い人です。

「体力的に弱い人」「精神的に弱い人」

「経済的に弱い人」「人数的に弱い人」

いろんな弱い人がいます。

 

そして、あらゆる「弱い人」は、

これまでの人類の歴史の中で強い人に虐げられてきました。

 

「強さと弱さ」「激しさと穏やかさ」「大きさと小ささ」というような

対立軸があるとするなら、すべて歴史の中で見過ごされてきた後者を

しっかりと思いやる、というベクトルこそが、

進歩した人類の叡智であることは疑いがなく、

それに逆行することは、人間が知性を手放し、人格を手放し、

野蛮な生き物へと退化することを意味していると思います。

 

ちがうでしょうか。

 

 

この世の中、頭のいい人、というのはたくさんいます。

 

まず、激しい口調で、早口でしゃべることができる人がいますよね。

そういう人は、頭のいい人です。

頭が良くないと、言葉を巧妙に操ることはできないんですよね。

 

けれど、そういう能力を使って、他の人から思考を奪ったり、

攻撃的な感情を煽る人というのは、せっかく回転の速い脳を、

あやまった用途に使用している人だということができます。

 

例えば、元フジテレビのアナウンサーのY.Hさんという人がいます。

彼は間違いなく回転の速い脳をもった人です。

が、彼の発言は度々物議を醸しますね。

 

おそらく彼は、頭の回転が速いがゆえに、

自分の言いたいことの意味がわからない人を見下してしまうという

人格的な問題点があるように思います。

 

経済評論家のT.Jという人がいます。

朝のラジオで度々登場するのですが、この人も頭の回転が非常によく、

高性能な脳を持っています。

 

が、決めつけや他者への思いやりに欠くコメントが多く、

人格的にはとても小さな人だと言わざるを得ません。

 

元大阪市市長のT.Hさんという人もそうですね。

優秀な大学を出て、弁護士から政治家になりました。

頭が良くなければ無理な経歴ですが、論争になるとキレることが多い人でした。

 

そのような人はたくさんいると思うのですが、

概して共通点があります。

早口で、声が大きく、威圧的で、他者の意見を聞かないということ。

物事を決めつけ、自分の考えを絶対視して、他者を見下すということ。

物事を合理性や、損得だけで判断する、ということ。

 

そういうような傾向があるように思います。

 

そういう人を前にすると、心の優しい普通の人は

圧倒されて、その人が正しいのだと思ってしまいがちです。

言っていることが理解できないのは自分の頭が悪いからで、

きっとこの人が言うことが正しいのだろう、と、感じてしまうのです。

 

おそらく、この手の「高性能な人々」は、

幼少の頃から、そういう威圧的なやり方で

自分の我を通してきたのでしょう。

 

子供の頃はそんな部分があっても、

大人になる過程で人との関係性に気づき、変わっていく人が多いと思いますが、

大人になってもそのままでいる、ということは、

ある意味、非常に子供っぽいということが言えるのだと思います。

 

 

さて、ここで想像していただきたいのですが、

例えばノーベル賞を取っているような学者さんはどうでしょう。

 

皆さん、猛烈に頭がいいと思うのですが、

その言葉はどこかゆったりして、穏やかじゃありませんか?

 

けれど決してぼーっとしているわけではなくて、

とても心に突き刺さるような本質的な言葉でスピーチされますよね。

 

少なくとも、公の場ではそうしています。

 

そこに、何かあるような気が私はしています。

私が思うに、コントロールしているんですね。

感情という浮き足立ったものを、人格がしっかりと管理している。

心が非常に強い人だと言えると思います。

 

だから、頭の回転は速いのに、早口でまくしたてないし、

無駄に終わるかもしれない実験をひたすら繰り返す忍耐力や、

その中から何かを見つけ出す大胆な発想が持てるのでしょう。

 

脳の使い方として、非常にレベルが高いと思います。

 

ネットの世界に目を向けてみても、頭のいい人というのは、

ものすごくたくさんいます。

「文才がある人」ですね。

 

けれど、違う考えの人までもが、思わず深く頷いてしまうような

「思慮の深さ」を持った人はとても少ないです。

もちろん、私自身も含めて、です。

 

いま、ここで、頭はいいけど人格的に尊敬できない人を、

私は例をあげて説明しましたが

そのような行為も、じつは私の人間性の小ささから出たものだと思います。

 

 

人間の歴史は、とても不思議です。

長い目で見れば、それは「戦い」と「その反省」の繰り返しのように思えます。

大きなゆらぎの周期の中で、友好的になったり、好戦的になったりする。

 

けれども、ただグルグル繰り返しているのではなく、

少しずつ進歩、進化はしているのです。

それは知性のない「戦い」の時期に対して、

平和な時期を維持し、少しでも長くすべきだ、という価値観には

誰もが疑いなく同意している、ということです。

 

「差別は良くないことだ」とか、

「貧困はない方がいい」とか、

「人は生まれながらに平等なのだ」とか。

 

そういう、昔は存在しなかった価値観が、

現代における物事の正しさの物差しになっていることは確かです。

 

そこには、度重ねられた凄惨な戦争や争いの反省があり、

そこから生まれた「基本的人権の尊重」という、

人間だけが作り出した叡智があるのです。

 

頭の回転が速い人、遅い人。

思慮の深い人、浅い人。

 

そういう二軸のマッピングをしたときに、自分がどこに位置するのか。

そして、今後、どこのゾーンに入りたいのか。

いちど考えてみるのも、面白いかも知れませんね。