東京都知事選が終わりましたね。

結果はご存知の通り、圧倒的な大差で

現職、小池百合子さんが再選しました。

投票率は60.62%で前回より微増。

 

小池さんの得票は291万8015票(42.8%)

2位の石丸伸二さんが165万8363票(24.3%)

3位の蓮舫さんが128万3262票(18.8%)

 

この3人だけの得票で85.9%を占めましたので、

選挙の掲示板も含め、さまざまなことがあった選挙戦でしたが、

それらの影響はなかったようです。立花さん、ご苦労様でした。

 

選挙前の予想では小池と蓮舫の一騎討ちと言われましたが、

石丸さんの登場によって蓮舫候補は3位に。

石丸と蓮舫の得票を足すと294万1625票ですから、

リベラルな人々は

「石丸さんが立たなければ蓮舫が勝っていた」

というような見立てをする人もいるかも知れませんが、

それはまったくちがいます。

 

石丸さんと蓮舫さんはまったくタイプのちがう候補なので、

石丸さんに投票した人は、石丸さんだから投票したのであって、

彼がいなくても蓮舫さんには投票しなかった人が多いでしょう。

 

私の周りでも「現職都知事はけしからん!だから石丸に入れる!」

という人はたくさんいました。

もちろん、「小池に入れる」という意見も聞きました。

 

 

私は、と言えば、蓮舫さんに一票を投じました。

蓮舫さんが都知事になれば東京都政が良くなる、とは

正直思ってはいませんでした。

 

私自身、今までずっとリベラル派のスタンスで生きてきましたが、

リベラルな人々には思考に特有の欠点があり、

それがある限り、本当に世の中を良くする力には

なりえないと最近は強く思うようになっています。

 

それは私自身が深くものごとを考えつづけた末に、

視座が上がり、他者の視点というものを

多少意識できるようになったからです。

 

リベラルな人は信じています。

自分と同じ考えでない人は、

まだ何かに気づいていないからだと。

大切な情報を知らないからだと。

それを知りさえすれば、誰もが自分と同じ考えになるはずだと。

 

リベラルでない候補者に投票してしまう人は、

本当にその候補者を支持しているわけではなく、

仕方なく投票しているのだ。

本当は、本音では、みんなリベラルな候補者に投票したいのだ。

 

そう思い込んでいます。

 

だから、選挙で負けても、

その責任が自分にあるとは絶対に考えないのです。

候補者も、支持者も、です。

 

今回、立憲民主党は、敗戦の原因を

共産党と組んだからだと、人のせいにしようとしています。

(共産党もリベラルですが、

 歴史的にちょっと特殊な事情があるので

 スケープゴートにされやすいですね)

 

しかし、選挙に負けた原因は、絶対に自分にあります。

小池さんに投票した人も、石丸さんに投票した人も、

ちゃんと調べて、その人がいいと思って、

自分の一票を投じているのです。

 

つまり、自分とは考えがちがう人がいる、という事実があるのです。

そのことを受け入れるところから始めましょう。

 

 

私は蓮舫候補の演説を4回、聞きに行きました。

回を追うごとに政策の輪郭はハッキリしていきましたし、

その中身についてはよく理解できました。

 

いい政策かどうかは、わかりません。

勝てる政策かどうかといえば、ちがったのでしょう。

勝っていないのですから。

 

リベラルな人々は、ジェンダーのこととか、

人権のことをすごく言いますよね。

もちろん、私も基本はリベラルなので、

よく理解できるし、それは重要だと思っています。

 

しかし、世の中全体の中では、

そのことは大したことではないのです。

もちろん、しかるべき人が誤った発言をすれば炎上します。

 

それは炎上という現象が

人の憎悪の感情の吐口の結果として存在するからであって、

個人個人がひっそりと行う「投票」という本音の行動においては、

そういうことが世の中全体の争点ではないということです。

(少なくとも、そう思う人が少ないということ)

 

自分達にとって非常に大切なイシューを、

選挙に勝つためにトーンダウンできるかどうか。

もっと別の訴えをできるかどうか。

 

 

私が感じていたのは、結局、蓮舫さんも

今の枠組みの中でしか政治を語っていないということでした。

 

税金の無駄遣いをやめ、

いま、光が当たっている人ではなく、

光が当たっていない人に光を当てる。

 

そう言っていました。

 

私はその意見には概ね賛成です。

しかし、たったひとつの光をどちらかに当てるという発想は、

やはり分断でしかないんですよね。

対立でしかないのです。

 

野球で言えば、攻守交代であって、

やっていることは野球のままなのです。

 

今、時代が本当に要請しているのは、

もう野球をやめようということです(例え話ですよ)。

野球場そのものが壊れそうな時に(地球の例えです)、

まだ野球(対立)をやりつづけますか?そんな場合ですか?

 

つまり対立という構造を変えようということです。

その価値観のパーセプションチェンジです。

対立が大好きな人類ですが、その壁を越えないといけません。

そうでないと、人間が地球環境を破壊する構造は

何も変わらないからです。

 

今、光が当たっていない人からも、

当たっている人からも、納得される新しい指標が必要なのです。

それが提示されないとき、

いちばん強いのは、誰であろうと現職なのです。

 

蓮舫さんはなぜ負けたのか。

 

リベラルな人々は

「他者を自分と同じ考えに変えたい」と思いすぎなのです。

だから、他者からみると「怖い」のです。

(ちなみに、それに喝采を送る支持者も怖く見えます)

 

でも、実際のところでいえば、

「他者を変える」なんて誰にもできないのです。

人は「自分で気づいて変わる」のです。

 

できることといえば、そのためのヒントを出すことだけです。

いま、光が当たっている人たちがいるとして、

その人たちを敵に回すような言説をぶちまけるだけでは、

そちら側の人たちはリベラルを(今回の場合は蓮舫を)

嫌いになるだけですね。

でも、彼らも同じ日本人であり、都民なのです。

都民の中に敵をつくるやりかたでは、現職を崩せません。

 

 

思い出してください。

民主党政権がやった最大の過ちを。

 

それは霞ヶ関を敵に回したことです。

彼らは視野が狭かった。

だから与党自民党と、霞ヶ関の官僚たちを

一心同体のものだと勘違いしていたわけです。

 

しかし日本の選挙制度の中では、政権が交代しても、

その政策の実施部隊である霞ヶ関は同じ人材のままですね。

 

野党でいるとき、国会で霞ヶ関の官僚たちを

自民党と十把一絡げに批判していた民主党の人々は、

政権与党になっても同じことをしてしまったのです。

 

そんなことをすれば、自分たちの手足となってくれるはずの

霞ヶ関の人々は動きません。

そのとき、民主党の人々の中に

「霞ヶ関の人々に『民主党政権の方がいいね』と思わせよう」

という考えの人がいたでしょうかね。

でも、それが必要なのです。

 

国や都を運営するというのは大仕事です。

船で言えば巨大豪華客船やタンカーです。

立憲野党の人々は、普段、手漕ぎボートや

せいぜいタグボートくらいの操縦しかしておらず

巨大タンカーもそれと同じだと思っている節が感じられます。

 

けれど、大きいものは操縦方法が違う。

関わる人間の数が多いほど、とりまとめるのは難しくなる。

そんなの、人間社会の中では当たり前のことです。

 

そういうことを理解していない節がある。

私はそう感じます。

だから政権にちかいような大きな選挙で勝てない。

もっと大きな視座で、大きな話をしないとダメです。

大きな人間にしか、大きなことはできないからです。

 

大きいというのは、ある種、鈍感でもあるということです。

本当に大切なこと以外には鈍感であることができるか。

 

そういう指針を自分の中に持てるか。

わかるでしょうかね。

 

 

蓮舫さんは今回のこの結果を、どう受け止めるでしょうか。

自分は決してまちがっておらず、

伝わらなかっただけだと考えるなら、

決して変わることはないし、選挙に勝ったとしても、

世の中を変えることはできないでしょう。

 

世の中にはいろんな考えの人がいる。

その数取り合戦をするのではなく、

自分とちがう考えの人でさえ、

この人の方がいいと思える「何か」を持てるか。

 

具体的に言えば、より大きな人間になれるか、です。

 

野党は批判ばかり、と言われますが、

批判でなく、ちゃんと政策を話しても、

やはりその政策は批判やルサンチマンをベースにしていますから、

あまり印象が変わらないんですよね。

 

もちろん、それは支持者も同じです。

まぁ、もっと本質的に言えば、

支持者が変わらないから、候補者も変わらない部分もある。

 

そういう全体像として、

小池百合子というよりも、自分達の中にある壁を

壊すには至らなかったということでしょう。

 

 

今回のこの文章が、リベラルな人に響かないことはわかっています。

リベラルな人々が最も嫌い、苦手とするのは、

自分達への苦言や提言だからです。

 

しかし、リベラルな人々が

普段、他者に対して言っていることをそのまま自分にあてはめて、

他者ではなく自分の態度を変えることができたとき、

 

自分と違う人を受け入れ、本当に寛容な態度をとる

スキルを身につけることができたとき、

 

リベラルは勝つことができるでしょうし、

本当に世の中を変えていく力になれると思います。

 

だって世の中を変えるには、

いま、光が当たっている人々の力も必要だから。

 

もちろん、リベラルは今のままでも

重要な役割は果たしているので、存在意義はあるんですけどね。

メインストリームにはならないということです。

 

メインストリームになりたいのであれば、

自分がメインストリームに相応しい人間に変わるしかない。

そういうことです。

 

他者を認めましょう。そしていちど受け入れましょう。

その上で、自分の主張を押し付けることなく、

自然と「そっちの方がいいね」と思うようになる話法を発明しましょう。

 

それはリベラルにとって最大の挑戦です。

人類の歴史の中でそれをちゃんとやれた人は、

今の所、ネルソン・マンデラだけかも知れません。

 

 

現代社会の中で、人々の精神が壊れ始めています。

それは社会構造の問題であり、しかもその構造は、

人々が望んでつくりあげたものです。

 

人間は不思議な生き物で、

なぜか「やりたいようにやった結果、自ら苦しむ」

という性質を持っています。

だから仏教は「生きることは苦である」と定義します。

 

そして苦しみから解放されるためには、

自分を苦しめる自分の拘りから自分自身を解放すること。

そう教えています。

 

それはもはや宗教ではなく心理学であって

人々が瞑想を取り入れているのはそのためです。

 

すべての原因は自分にある。自分の中に。

 

そろそろ今までの価値観を変えなければ、

人類の未来そのものの終焉が近いようです。

今日もきっと暑くなるでしょうね。

 

そういう部分に考えを向けてみるのもいいでしょう。