世の中に「タイパ」という概念が蔓延して、

だいぶ時間が経ちました。

 

今では誰もが「まず結論を先に言え」、

「答えを先に言え」と普通に要求してくるし、

まるでそれができる人が優れていて、

その尺度が正しいかのような風潮になっていますね。

 

しかし、私はこれに真っ向から反対します。

それは課題を解決するという点において、

完全にまちがっているからです。

 

先に答えを言える人は、深い思考をしていない可能性が高い。

 

深い思考の末に得た答えは、

それ単体で、理解しうる形で存在できないからです。

 

今日はそのことを書いていきましょう。

 

 

今の世の中に溢れる諸課題というのは、

たったひとつの原因で起こっているものはありません。

 

様々な事柄が複雑に絡み合ってできています。

 

ですが、課題の解決策を要求する方は、

シンプルな方法論を求めますね。

しかも、イッパツですべての課題が解決できなければ

「やる意味がない」とまで言ってしまいがちです。

 

しかし、まずそんなものは存在しないということを

現代社会を生きる我々は理解しなければいけません。

その解釈は、前提とすべきことです。

 

その上で、解決策を考えるには、

まずその問題について様々な角度から徹底的に検証し、

理解を深める必要があります。

 

なぜその問題が発生するのか。

それは誰がどのように困るのか。

解決しない理由はなぜか。

なにが障壁になっているのか。

 

そんなことをつぶさに観察し、

複雑に絡み合った巨大な糸の玉を

解きほぐしていく必要があるのです。

 

例えば戦争を止めたいのであれば、

「戦争反対!」とシュプレヒコールをあげるだけではダメで、

戦争とはいかなる現象なのか、

ということを徹底的に掘り下げ、

事象を再定義する必要があるのです。

 

 

解きほぐすときに必要なことは、

深く考えるということなんですね。

 

どうしてなんだろう。なぜなんだろう。

そういう問いへの答えはすぐには辿り着けません。

思考を深めていくと、どんどん枝分かれしていきますから、

答えはひとつではありません。

 

課題がひとつではないということは、

その解決策もひとつではないということです。

 

こうして課題を分解し、どんどん深めていき、

課題の構成要素をそれ以上分解できないような

素粒子のレベル(イメージです)まで分解すると、

やっと解決策はなにか、どうすればいいのか、というフェーズに移れます。

 

こうしてやっていくと、問題の本質的な姿が、

我々が感覚的に感じているものや、

実際に目に見えているものではなく、

もっと別のところにあるということが見えてきます。

 

まるで素粒子物理学に似ていますね。

 

すると解決策というのも、

当然、ちょっと考えて出てくるようなものとは

まったく異なるスガタカタチをしているわけですね。

 

しかし、それが「正しい解決策」です。

 

つまり「正しい解決策」とは、

多くの人がパッとイメージできるものとは

遠く離れた姿をしているものなのです。

 

ですから、深く考え抜いて辿り着いた先に出てきた解決策は、

その部分だけを伝えても、

多くの人には理解不能なのであって、

到底聞く価値のない「トンデモ」に見えるものなのです。

 

正しい解決策を理解してもらうには、

その思考工程そのものを先に共有し、

受け入れる土壌を作っておく必要があるということですね。

 

 

問題は、人々は正しい解決策を

自分が理解できるものではない、という理由で

無下に否定する傾向があることです。

 

これもまた当然です。

深く思考していないのですからね。

 

でも、深く考えていない人によって否定され、

いちど存在できなくなった解決策というのは、

その後はなかなか受け入れらることはありません。

 

それがもういちどチャンスが得られるまでにはかなりの時間を要するし、

そうなったときにはもう手遅れで、

問題は別の状態に姿を変えている可能性もある。

 

なので、「正しい解決策」は、

簡単に口に出していいものではないのです。

 

ここが非常に重要です。

「これこそが答えだ!」と確信を持った時こそ、

それを軽はずみに言ってはいけない。

丁寧に、受け入れられる地盤を固めるのが先なのです。

 

周りの人々が、その思考過程を理解できるように、

その課題の本質がなんなのか、ということに共感し、

自分ごと化されるまで、

ひとつひとつ丁寧に共有していかなければいけないのです。

 

 

しかし、それは非常に面倒くさい工程なのです。

人の脳は非常に面倒くさがりで、ラクをしようとする性質がある。

特に関心の薄いことに関しては、その傾向は顕著です。

だからみんな我慢ができないんですね。待てないのです。

 

面倒くさいからこそ、自分で考えてみることをやめ、

「先に答えを言え」「早く結論を言え」という

意見が出てきてしまうわけです。

 

他の人が考えたアイデアに意見を言うだけなら、

誰だって簡単にできますからね。

 

思考工程を共有するには、

自分でもちゃんと考えてみて、

その人の脳内の経路を自分でも辿ってみる必要がある。

 

それは大仕事です。嫌ですよね。

文句を言うだけの傍観者になっていた方がずっとラクです。

 

だから自分で考えることを放棄して、

最終形だけを求めてしまう。

でも、だからこそ、その正しい姿を決して理解できず、

今の自分にわかる範囲の考えだけで否定し、

その考えを亡きものにしてしまおうとするのです。

 

これは人間を短文しか読めないようにしてしまう

SNSの最大の罪なのではないかと私は思っています。

 

人が自分で思考しなくなっていくこと。

答えのみを求めるがあまり、

「なぜそれが正当なのか」を理解する土壌が失われていくことは、

人類という種の持続可能性を毀損する可能性がある。

 

私はそう思っています。

 

・・・というか、このままの流れが変わらなければ、

人類はこうして終わりを迎えるのだろうということが、

簡単に推測できると思っています。

 

 

私は絶対とか断言とかは基本的にいけないことと思って、

いつもはできるだけ控えていますが、これに関しては断言します。

 

人類の持続可能性にとって、

「早く答えを言え」「先に結論を言え」という考え方は、

絶対にマイナスの結果をもたらします。

 

なぜなら、今、我々を取り巻いている問題の多くは、

すぐに解決できない、足の長い問題ばかりだからです。

 

それは我々に高い視座にたち、

自分の生涯の長さを超えた時間軸の中で

ものごとを考えることを要求するからです。

 

その結論が正しかったかどうかを見るのは

我々の世代ではなく、ずっと先の世代です。

 

そういう問題に対して、

「先に答えを言え」というスタンスは

責任の放棄なのですね。

 

なぜなら、答えを考えるのは我々一人一人の責務なのであって、

政治家や学者など、特定の誰かだけの仕事ではないからです。

 

未来を考えるのは政治家の責任だと思っているから、

政治家に「答えを先に言え」などと

筋違いなことが言えてしまうわけです。

 

この構造的なパラドックスが見えるようになるには、

やはり視座を高く上げるしかない。

 

ですから、ネットでもテレビでもいいですが、

すぐに答えを求めるような言説があったときには、

それは人類にとっての敵だと思って接してまちがいないでしょう。

 

そしてそんなことを言っている人には、

「あなた自身はどうしたいの?」と問うてみるのがいいと思います。

人類の未来が他人事の人は、この地球上に一人もいません。

そういう人がいる限り、我々の未来に持続可能性が生まれることはありません。

 

それほどまでに、人類は今、

自分たちで自分たちの未来を破壊する力を持ってしまっているのです。

 

大切なのは、結論を先に言わせることではなく、

思考の肯定を共にすることです。

それが最も重要であり、そこが達成できれば、

答えそのものはそれほど重要ではありません。

 

自ずとわかるからですね。

 

結論を先に言えと求めることは、

愚かな態度だということを、認識しましょう。

あなた自身と、人類全体の未来のために。