江戸時代、時計は大名でなければ、持てないぐらいの高級品。
そんなことから機械時計を大名時計とも呼ばれていた。
それでは、庶民らはどのようにして時刻を把握していたのか?
その答えは、大きな梵鐘(ぼんしょう)を用いて時刻を知らせる「時の鐘」というシステムだ。つまり、決まった時刻に鐘をつくというシンプルな方法が用いられた。
当初、時の鐘は江戸城内でつかれていたが、1626年、辻源七が本石町三丁目(現在の本町四丁目・宝町四丁目一部)に鐘撞堂を建てて、庶民に時を知らせた。
江戸時代前期は本石町の鐘たけだったが、後期なると、上野の寛永寺や浅草の浅草寺など、10か所ほど設置された。
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」
芭蕉がこのような句を詠んだように、江戸時代のまちは今と違って静かだったから、深川に住んでいた芭蕉の家からでも上野の鐘も浅草の鐘も聞こえていたことがわかる。
江戸の人は、木戸の開閉や処刑の執行なども鐘の音を合図にしていた。
本石町三丁目の鐘では、小伝馬町処刑所の近くにあったことから、刑の執行の時は鐘をつく時刻を遅らせて、少しでも生き延びる時間を延ばしてあげていたことで、「情けの鐘」や「慈悲の鐘」などと呼ばれていた。
とても感慨深い。




