最近就活の相談をインターン先の経営者の方にしてもらっていて、beingなる物の整理をしています。

being:こうありたいという自分の姿。
主に幼少期の人の関わりによって形成されるもので、親、先生、または小説の主人公の生き方などがbeingの醸成源となりやすいもの。

私自身のbeingは簡単に言うと"優しさと強さを持った人間でありたい。"になる。
このbeingの説明は長くなるからまた今度にしたいんだけど、
今日は、beingの形成における家族、みたいな話をしたい。

人が生まれて初めて関わる他者として、家族の生き方はその人のbeingに大きく影響を与える。

経営者の方とお話をしていた時に"自分の家族に自分のbeingを見出せない人間は、社会的な普通、当たり前に疑問を抱きやすくなる。"と言うお話をされていて。

感覚的によくわかる。なんでなんだろうみたいなことをちょっと議論してた。

私個人の話で言うと、
高校生の時にシェイクスピアの戯曲ハムレットに魅せられて、その戯曲を繰り返し読んでいた。なぜその話にそこまで魅せられていたか、と言うと、
"社会的な普通の感覚って普通なのか?"
という問いがそこにあると思っていたから。その問いは自分の心の中にある問いと同じだったから。

ハムレットはすごく簡単に言うと
ハムレットの父(国王)が殺され、父を殺した犯人がその後国王になった際に、母を含む周りの人間が父を殺した現国王につかえ、彼を支えるようになる。それを見たハムレットは、まわりの人々は狂っている、と表現し、自らはそのようにならないと決めて狂気を装う。

父の死をきっかけに狂気を装うようになるハムレットを、人々は普通ではないと見ているが、国王の死の後、何事もなかったように新国王に使えることのできる人たちの感覚って普通なのだろうか。その人たちは何か心を感じないように生きているのではないか。ハムレット的なある意味生きにくさを感じる感覚が普通と取ることもできるのではないか。そんなことを思ってた。

話は戻るが、なぜ自分の家族に自分のbeingを見出せない人間は、社会的な普通、当たり前に疑問を抱きやすくなるのか。

生まれた時は
家庭=世間=being、(自分の)正しいあり方の像が埋まってる場所
である。

家庭の崩壊または、それに対する疑問が生まれるとこの方程式が崩れる。

家庭=being.(自分の)正しいあり方が埋まってる場所  にならない

側面と

世間=being.(自分の)正しいあり方(ハムレット的普通の感性)が埋まってる場所  にならない

ということが起こってくる。もっと分かりやすくぴったりとした説明がしたいと二人で考えたけど、うまくいかなかった。笑

私はこの方程式が崩れること自体は結果的にいいことなのではないか、と思っている。家庭は世間の尺図と言ったりするけれど、それは正確には違うから。その認知ができるという点では、正しい見方ができるようになっていると思う。

ただ、正しい認知ができることが人の幸福につながるかということを考えると、私の経験上では、この方程式が崩れていない人の方が幸福度が高いように思う。これは感覚的な話でメカニズムがわかっているわけでは無いけど、ある程度納得を持って言える。それは、社会を見る上で疑いがないから。道がはっきりするし、それが崩れる不安感というものがあまりなく、精神的に安定しているイメージ。

どっちがいいという話がしたいわけではない。でも、そこらへん、カチッとはまるメカニズムってなんなんだろうって気になってる。