昨日の続き!

戦後イギリス社会にブリティッシュムスリムが労働のために流れ込んだ歴史が分かりやすいのでここではその話に沿ってみる。

イギリスの植民地支配終了後、沢山のブリティッシュムスリムが仕事を求めてイギリスに入国して来た。自分達が支配をしていた土地の人々が入り込んで来て、目に見える形でイギリス社会に現れると、イギリス人は"恐怖"を覚えた。

"彼らが入ってくることでイギリスが脅かされるのではないか?"

支配していた記憶から、復讐的なものを恐れる感情もあったと思うけど、自国への他者の流入が自国の存続への危機感を産んだことが大きい。

その時イギリス人の頭の中で起こったことはこう。

イギリスを守らなくては。イギリスは歴史あり、高貴で、知性溢れる国だ。そこに、野蛮で、遅れていて、粗野なムスリムが入って来ては困る。

ここでは実際にムスリムが何であるか、どんな人たちであるかはイギリス人にとって問題ではない。
自己が脅かされる恐怖に対して、自己の正当性、価値の担保が必要で、ムスリムは"自己でない他者"として、正当性、価値を持たないというレッテルを貼ることが重要だったのだ。

ユダヤ人大量虐殺でもIS問題でも似たようなことが起こってる。ユダヤ人は遺伝子的に劣っていることなんてないし、ムスリムは本来危険で暴力的な人々ではない。でも社会的にそのような誤解が広く広まることがある。悪意がなくても。

恐怖という力がこれまでに人を動かし、意識的にも無意識的にも、他者をネガティブに規定し、生きにくくしてしまう。人間は生物として種の存続が遺伝子に組み込まれているから、恐怖の力は想像以上に大きい。

何が言いたいかって、私は自己の正当化のために他者を規定するって言うのは、とても良くない人との向き合い方だと思っている。それは、その人を見て、知っていこうとするものではないから。ものすごく都合のいいような解釈だと思う。

そして、そのような向き合い方が起きてしまう原因は、自己の正当性、価値が脅かされる恐怖からくると思う。

本能に近い防衛行為としてのネガティブな向き合い方、これをどのように変えていけるのか、まずは個人が。そして社会が。
これが一つの私の大学での関心なのです。
終わり