散々な年明けを過ごして、村上龍さんの「オールド・テロリスト」を読みました。

 

色々思うことはあったけど、”自殺するということ”に関して私はいつも思うことがあって、今回もこの本を読んで思うところがあったので書きます。

 

 

私は今までの20年間の人生の中で

数回私の眼の前で死のうとする人を見たことがあります。

その人たちは皆「もう生きていくことが辛い、死にたい。」「止めないで。」と私に言いました。その言葉は嘘でも、大袈裟でもありませんでした。本当に苦しんで苦しんで息をするのも苦しいようでした。

 

でもその人たちは皆声にならない声で、「助けて、まだ生きたいんだ。」と言っていることがハッキリと分かりました。

 

人は自分が生きる価値のある人間であると実感したいのだと思います。

そのために人は一生懸命働き、社会に貢献し、人を愛し、生きる。

でも、自殺をしようとする人は、生きることによって自分の価値を見出せなくなってしまった。そして自分の価値を認識するために死を選択するのではないかと思います。

一見繋がりはないようだけど、死のうとする人を眼の前にするとそれが感覚的に分かる。

 

死とは、目の前にあった物がなくなること。

それは欠落であり、人はその欠落によってその以前は当たり前にあったものの重要性を実感する。死のうとする人は、意識的になのか無意識的になのか、自分という存在の欠落によって自分の生きていた価値を証明しようとしているように見えます。

でも本当は生きてその価値を証明したかったはず。でもその気力も残っていなかったんじゃないか。

 

 

電通社員の自殺問題に関して

「そんなにしんどいなら、会社を辞めればよかっただろう。上司に文句言ってでも、家に逃げ込んででも、死ぬよりは良かった。死んで逃げてはいけない。死んだ彼女の側にも責任はある。」というような意見をたまに目にする。

私はその意見はまっとうだなと思います。この世界に生を受けた限り、生きて自分の価値を見出さなくてはいけないと思う。

 

でも彼女の苦しみを知らない人たちが彼女を責めることは絶対に絶対にできないと私は思います。そしてそんな風に批判をしても若い大切な大切な命はもう帰ってはこない。

死にたいと本気で苦しんでいる人に、「死ぬのは逃げだ、弱さだ。だから頑張れ。」といって、その人が死ぬのをとどまってくれるのだろうか。私はそうは思いません。

 

日本社会の自殺問題に関して色んな人が色んな分析をしている。問題の根本は簡単ではないのかもしれない。

でも私はただ、私たちみんなが「あなたの存在がとても大切で、私にとってかけがえのないもので、いなくなってしまうことはとても悲しい。」ときちんと表現して、そしてきちんとハグをする。それだけでいいと思います。

 

だから、私は言います。

「私はあなたの存在をとても大切に思っていて、あなたがいなくなったら私は悲しい。私は頭が良くもないし、何も根本的な解決はできないかもしれないけど、一緒にご飯を食べてお話しできるし、隣で笑顔でいることができるし、あなたをハグできます。だから生きてほしい。」

 

あけましておめでとうございます。