友人との話から、「グローバルな人間」という話になりました。
一般的にグローバルな人、というのは、
色んな国境の人が集まっている状況、とか、
言葉を沢山話せる、とか
いろんな国で住んで、いろんな文化を知っている、とか
そういうポイントを指し示して「グローバルな人だね」、という
ケースが多いように思います。
しかし私見とし ての「グローバル」の定義とは
外国の文化を沢山知っていることよりも、
”基点のアイデンティティを持っていること”
だと思っています。
海 外で長いいると、時々その国になじんでいる事を強調するあまり、
自分の国に対し否定的であったり、意見がなかったり、
関心がない人に出会うことがあります。
確かに自国を批判することや好き嫌いは個人の自由ですが、
いざ海外において意見を求められたとき、
例えば日本 人なら日本人としての見解から
生産的意見を述べられなかったり、
自国の政治、文化、歴史にまったく疎すぎた場合、
いくら海外の文化、習慣、言葉を理解し流暢に会話ができたとしても、
そこに「グローバル」という定義は当てはまらないという意味です。
たとえば、海外の人が関心をもつのはそ の人の国 の情報です。
政治に興味を持つ人、日本の学生や、ニート、漫画、など、
その国の独特の文化に関心を持つ人はたくさんいます。
それらに対する答えを持っていることを期待されているわけですから、
自分の意見がある程度まとまっていないと答えられません。
要はどれくらい海外をしっているかよりも、
自分の国 を如何にちゃんと知っている か、ということになります。
しかし実際は、まったく自分の国を知らない、語れない人が
冗談ではなく結構います。
そういう人は、私の私見からいうと、
グローバル感が低いということになりま す。
現在一歩海外にでれば、仮にそこで何年暮らそうと、
周りにいる他国の外国人を含む現地の人々が質問を
投げかけるときは 「(日本人としてのあなたの)意見はどう?」と
聞いてくるわけです。
要は、自分のメンタリティやアイデンティティ、日本人としてはこう思う、
日本人はこう考える、という回答ができなければ、
目的は達成されないわけです。
質問をする人の意図は、意見の ギャップを測り、
分析しようとすることなわけですが、
「日本人としての意見」を主張するにたりる自分なりの意見や考えを
普段からちゃんともってまとめていないと、この感覚は養われません。
実際こういう場面は海外に長くいると必ず直面しま す。
「私はこの国(現地の外国)を こんなに理解している、
こんなに言葉が話せます」、という事だけではなく、
ぶれない軸となるアイデンティティをちゃんと持っていて、
「自分の国の意見」と「海外の理解」の間に存在するギャップを
測って、答えを出せる、あるいは探ろうと出来る感覚を
グローバルな感覚というのだと考えています
欲を言えば、枠を広げて「アジア」を語れるレベルを
意識できたら 「アジア人」 として言うことないですね。